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■息子がすべての「ムスコン母」 ~男子よ、避難せよ!

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 夫との愛情や性的関係が失われた、自分の息子を「私のすべて」ととらえ、支配したがる妻を、ダイヤモンド・オンラインの記事では「ムスコン」と呼んで紹介していた。

 ムスコンとは、幼少児の息子に対して一方的に性的(あるいは恋愛的)な関係を強いることによって、わが子をいつまでも幼いままにし、自分の支配下に置きたがる母親のこと。

 昨今では、「ムスコン母」は決して珍しい存在ではない。
 「たくさんの妻が悩んでいる」というNAVERまとめもあるし、この言葉自体も石坂啓さんの80年代末に発表したマンガ『ムスコン』が最初だろう。

 つまり、90年代以後の母親には、既に「ムスコン母」が増殖していたことになる。
 今日では、すでにテレビ番組新聞の記事でも取り上げられ、関心と注目を集めている。

 では、実在するムスコン母は、どんなものなのか? ダイヤモンド・オンラインの記事によると、こんな2人の母親がいたようだ(※記事を引用)。



 これらは、立派な”性的虐待”の告白である。
 ダイヤモンドの記事で書き手はそれを明確に指摘していないが、仮名の取材対象者に遠慮する必要はなかったはずだ。

 もっとも、「ムスコン母」自身も、自分がわが子に虐待をしているという現実をまったく自覚していないし、指摘されても「私が腹を痛めて産んだ子なのよ。母親の自分がこの子に何をしても、あなたに批判される権利はない」と居直り、絶対に認めないだろう。

 近親相姦は一概に責められるべきことではないが、子ども虐待は動物虐待と同じように、被害当事者の意志を正確に読み取るのが難しいことを逆手にとって一方的に進められるがゆえに、社会的に容認されることはありえない。

 そもそも、子ども虐待をしている親は、夫や自身の親などのパートナーとの関係における問題を解決することをあきらめてしまっていたり、それでも「経済的に自立できない」「不倫もできない」などの自分自身の事情から仮面夫婦・仮面親子を続けていることもあるため、自分自身の癒やしを抵抗できない弱者であるわが子へ求めてしまう。

 こうした「ムスコン母」は、90年代には既に珍しくなくなっていた。
 それゆえ、現在20代前半までの世代では、反抗期がなかったり、草食化している自分に何の疑問も抱かない男子が「ふつう」になりつつある。
 しかし、「性的虐待といえば、父親が娘にするものだ」という誤解を、テレビや新聞は盛んに大衆に与えてきた。

 性に目覚めていない赤ちゃんや幼児が相手なら何をしてもいいという構えは、息子・娘を問わず、それ自体が虐待だ。
 「親ならわが子に何をしてもいい」という考えは、子どもが大きくなって、親の方が「こいつが暴れ出したら体力では勝てない」と不安を持たない限り、延々と親の脳裏にこびりついている。

 こうした親たちが家という密室で子どもに対して支配的にふるまう時、子どもは絶対的な弱者であり、とても抵抗することができない。
 それは、レイプより比べようもなくひどい支配関係なのだが、日本では子どもの権利は女性の権利より軽んじられている。

 女性よりはるかに弱い子どもの権利を守る文化を作り出そうとしない限り、女性の権利もいつまでも形ばかりのものでしか担保されないだろうし、小中学生を性欲の対象にする男たちにその権利を当たり前のように理解させることも難しいだろう。
 だから、僕は1997年に『日本一醜い親への手紙』を企画・編集したのだ。
(※ちなみに、編集者だった僕は、この本のあとがきに臨床心理士の信田さよ子さんを起用したが、そのことをフェミニズム研究の第一人者である上野千鶴子さんが「あなたが信田さんを発掘したのね」とほめてくれたことは興味深い)

 親からの虐待によって自己評価を不当に低められ、自尊心をもてないまま大人になってしまい、自分の責任能力によって自由に振る舞うことができない若者たちを、僕は90年代初頭から取材してきた。

「もう20歳を越えてしまったから、他の人に言っても『親のせいにするな』と一蹴される」
 そんな嘆きも、さんざん聞いてきた。

 しかし、家庭教育や学校教育など「教育」と名のつく場所には、メリットと同じ程度にデメリットがあり、良くも悪くも影響を受けるのだ。
 親が子どもに施すしつけはその始まりであり、親が良かれと思って「愛」ゆえにやったことでも、子どもにとってはただ自分の意志を奪われ、支配される心地良さに毒され、自尊心を奪われてしまうだけかもしれない恐れが常につきまとう。

 自分の心身を支配してきた親からの避難は、何歳でもかまわない。

 未成年なら児童相談所を通じて養護施設や民間のシェルター、シェアハウスなどへ避難できるし、20歳を越えたなら家族に無断で実家から引っ越してしまってもいい。

 もちろん、親との関係に違和感や不満を覚えても、ためらってしまう子は珍しくない。
 そこで、親からの避難の必要性を自覚させ、強く動機づけるものの一つが、恋愛なのだ。


●男子は、たった3つの課題をふだんから解決しよう!


 思春期を迎えると、多かれ少なかれ、性欲が生まれる。
 男子だと、夢精で濡れたパンツを母親の目を盗んで自分で洗ったり、恋に目覚めた気持ちが恥ずかしくて家族の誰にも言えなかったりする。
 つまり、親にも言えない秘密が少しずつ増えていくのが、自立の始まりなのだ。

 それなのに、母親が「とても手のかかる年下の異性」というまなざしで自分を見つめ続けていたら、男子はたまったもんじゃない。

 保護者である親から「正しさ」を押しつけられ、同時に同じ人間が、性的な関係を期待されては、自分の気持ちを自分で肯定するチャンスが奪われかねない。

 もちろん、これは女子も同様で、父親が「とても手のかかる年下の異性」というまなざしで自分を見つめていたら、ゾッとするだろう。
 そして、ムスコン母も、かつてはそういう娘だったはずなのだ。

 それなのに、自分がどうにでも自由にできる絶対的な弱者である男子が産まれると、「母親の自分にはそれをする権利がある」と居直ったり、「育てているというより尽くしている」とだめんず・うぉーかーを相手にするような構えをとる。

 それは、その母親自身が夫以外に承認されるチャンスがなく、家の外側にある社会から必要とされて自尊心を満たすチャンスも無いことの証かもしれない。

 現実の社会には、子育て中の母親の手も借りたい事業体やボランティア団体などが山ほどあり、そうしたチャンスを探そうとさえすれば、承認されるチャンスにありつくことは難しくない。

 だが、赤ちゃんや幼児という絶対的な弱者にしか自分の癒やされたい思いをぶつけられない母親の心の奥底には、「自分なんか何の役にも立たない」という自己評価の低さが、便器の内側の黄ばみのようにこびりついているのだろう。

 それは、男たちが作った社会の仕組みによって強いられたさまざまな生きづらさの結果である面もあるため、第三者からは一方的に責められない部分はある。
 しかし、それを差っ引いても、虐待が正当化されることはない。

 そのようなムスコン母から避難するには、男子に向けて「自分の母親をただのババアだと思えてからが大人なんだぜ」とハッキリと教えてあげる人が必要かもしれない。

 これは、学校教師や、教育講演会でスーツを着て演説する識者にはできない芸当だ。
 それができるのは、男子が思わず恋してしまった相手だろう。
 惚れた弱みがあると、その人の話を無視できなくなるからだ。

 やがて家を出て、広い社会で暮らしていく子どもにとって、自分の親を「ただの中年」「ただの人間」と認知することは、その子自身の心理的な自立を育てる。
 自立とは、自分の言動の責任を自分自身で取ることであり、親や他人にその責任をとらせるようなヘマはしないようになることだ。
 その社会を生きる実感への目覚めの一番最初のチャンスに、恋愛がある。

 好きな相手と2人だけの泊まり込み旅行をしたり、ラブレターを交わし合うなど、「二人だけの秘密」を分かち合い、誰よりもそれぞれの親や親族などの保護者を排除することによって、自分自身の選択の責任を自分で負い、負える責任の範囲にしか自由や権利がないことを思い知るのが自立であり、この社会を自分の責任で渡っていけるという自信と自尊心を獲得するための通過儀礼であり、大人になるということだからだ。

 「前向きな子」ってどんな子?というブログ記事でも書いたが、親を裏切ることは、長い人生を自分で切り開いていくために必要な毒気である。
 それでも、「自分には毒気が足りてない」とか、「女子に縁がない」と嘆く男子も少なくないだろう。
 そこで、次のことをふだんから友人や家族などを相手に励行してみてほしい。

① 誰かから話しかけらたら、自分の話より、相手の話をうなづきながら黙って聞く
② 自分がどう思われるかなんて考えず、むしろ自分のカッコ悪い弱さこそうちあける
③ 相手を変えようとせず、自分が拒否したいことだけは常に口に出して言う

 以上は、どれも、男子がムスコン母に望んでも、してもらえなかったことではないか?
 知識や経験が不足している未熟さは、若いほど取り返せる。
 しかし、すでに自己評価が低いまま数十年も生きてきたムスコン母は、取り返せない恐れがある。

 生まれつきいろんな障害があるのに、病院で診断されたことがなかったり、子どもの頃に親から虐待・抑圧された過去があるためにトラウマを抱えていたり、本人自身からは積極的には言い出さない暗い事情やすっかり忘れている原因があるかもしれない。
 そうしたことが薄々感じられる場合、息子は母親の「ムスコン」を治すことなど考えない方がいいだろう。

 一刻も早く黙ってその家から避難し、親子関係から遠く離れ、それ以上、自尊心を壊されないようにすることが、自分の人生に虚しさを溜め込まずに済むおそらく唯一の打開策だから。
 ムスコン母は、男子から判断の主体性を奪い、「おまえは私がいなくちゃいつだって何もできない子ども」という呪いをかけるからだ。

 血縁上の親なんていなくても、子どもは立派に育っていく。
 害悪になる親を捨てないと、子ども自身がいつまでも割を食う羽目になる。
 親が死ぬのをビクビクして待ってるような暮らしを続けていた子どもが、親を殺してしまったという少年事件は珍しくない。

 ムスコン母は、きみがダメな子である方が自分が必要とされてうれしいのだから、いつまでもきみをダメなままにして成長させず、どんなに頑張っても「まだまだね」と満足感を示さず、「家」という鳥かごの中に監禁しては鍵を隠し、きみに親を心配させないように仕向け続ける。
 心配し、苦労することが親の仕事のなのに、それを放棄した方が楽だから、きみをあれこれと縛り上げるのだ。

 そこで、親の言いなりになって、良い子として親が喜ぶ通りの人生のレールにのったからといって、その人生の先できみが後悔する日が来ても、親は必ず「あなた自身が選んだ道でしょ」と責任から逃れるよ。

 そもそも、親は子どもの人生に責任なんて負えないのに、きみの人生を判断・査定する人になりたがるんだよ。
 そして、わが子を自分に依存させるように仕向けてしまう。

 この「共依存」という厄介な作法は、多くの親がなりがちな、はしかのような病気。
 しかし、はしかも、こじらせると、感染させられた側も巻き込んで死んでしまう。

 ムスコン母は、子どもが20歳を超えても、冷笑的なまなざしを向け続けるからだ。
「どうせ未熟なあんたなんかに、この家から出ていくことなんてできるわけがないでしょう」と。

 だから、自分の母親が「ムスコン母」だと気づいた男子たちよ、自分自身で責任のとれる人生を取り戻すために親を捨てよ。
 家から出よう!
 前述の3つさえ満足にできるようになれば、これまで女子にまったく縁がなかったきみだって、イヤでもモテるようになっちまうからさ。

【関連ブログ記事】
 「前向きな子」って、どんな子? ~うしろ向きでOK
 5の虐待 「文化的虐待」を考える
 イスラム原理主義者に自爆テロを教えた日本


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■今年のおっぱい募金は変! ~非営利事業の信頼

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 NPO、社会福祉法人、一般社団法人など、非営利事業を行う団体の一部には、公的に認証された法人にも関わらず、残念な活動実態になっている場合がある。
 たとえば、Yahoo!検索で「NPO」「逮捕」の2文字で検索すれば、いくらでも出てくる。



 なぜ、営利目的ではなく、社会的課題の解決をする目的で結成されたはずの事業体に、こういう不祥事が生まれるのかについては、さまざまな要因がある。

 福祉系の事業を手がける法人の場合、国からの補助金が降りてくるために、団体の代表者自身の経営力が問われないため、たとえば福祉作業所で就労支援を受けるために通所している障害者の平均工賃が月額1万円台という超ブラック企業並だ。

 それを、テレビや新聞などのマスメディアは、さほど問題視しない。
 問題視するのは、自分と同じ障害者が不当な工賃に耐え続けている姿を観て、「これはおかしい」と義憤を感じ、自ら起業して障がい者を雇い、健常者並みの月収に近づける努力を続けてきた社会起業家だけ。

 障害者と健常者の間に対等な関係を求めるなら、「就労支援」というきれいな名目の下で不当に安い工賃で働かされている被支援者(障害者)の苦しみに気づき、同じ職場で働きながら障害者より20倍近い月収を得ている健常者(支援者)の自分が、その職場の経営者の経営方針によって障害者と分断されていることに違和感といらだちを感じ続けるはずだ。

 一般的に、障害者・貧困者・低学歴・事件被害者・被災者・病人などの社会的弱者を支援する活動には、支援される側を支援する側が支配する上下関係が生まれやすく、支援する側が支援される側の求める活動にさほど関心を抱かず、「僕が助けたいようにあなたは助けられればいいの」という姿勢を崩さないことが珍しくない。

 その場合、被支援者が支援者に支援内容の変更・改善を求めても、交渉の余地すら認められていなかったり、話を聞いてくれないことすらある。
 刑事事件にまで発展しないものの、支援を求める側が支援者と満足なコミュニケーションができず、それゆえに両者間で問題をこじらせ、第3者にきな臭いイメージを振りまいてしまうことも起きている。
 そうした懸念は、常にネット上で話題になっている。

 風俗嬢のセカンドキャリア支援を標榜するGrowaspeopleについては、元・相談者である女性たちに釈明の電話をかければ済むだけの話だが、なぜそんな簡単なことがいつまでもできずにいるのか?
 ネット市民がそれを疑問視するようになってきた今日、同団体の角間さんは、そろそろ公式見解を発表してほしいものだ。

 でないと、支援活動を行う他の多くの非営利活動法人にまで、「どうせそんなもん」というまなざしが向けられてしまう。
 困ってる人たちから感謝されてる活動実績を持つ団体まで、軽視されてしまいかねないのだ。
 僕は、その点を何よりも懸念する。

 

●Growaspeople、アムネスティ日本、おっぱい募金の課題

 広く社会に情報公開をし、公明正大な活動をするのが、民間の市民活動に対する社会的信用を担保する。
 たとえば、トラブルがあった場合、速やかに声明文を発表してその事実を隠さずに公開することが、非営利活動への社会的信頼を守ることになるのだ。

 そういう意味で、Growaspeople代表の角間さんが元・相談者に求められている「電話による釈明」は、速やかに行えばいいいだけの話にすぎない。
 こんな簡単なことさえ怠れば、日に日に活動実態に対する疑義が世間からへGrowaspeople向けられるようになってしまう。

 同団体の代表の角間さん(右の写真)が電話1本かけないままでは、当事者たちはもちろん、他の非営利活動法人、非営利活動を応援する多くの市民も含め、誰も幸せにしない。

 非営利法人が社会的信頼を築くためには、企業が助成金などで資金を提供する際、「その金で何ができたか」をきっちり検証できる仕組みを持つことも必要だ。

 ところが、大企業からNPOなどの非営利法人に助成金を出す場合、非営利活動の実態を精査しているとは、とても言えない。

 某有名企業のCSR担当者は、僕が取材で本社を訪れた際、堂々とこう言った。
「私たちは助成金を提供した後に、地方の該当NPOに足を運び、日帰りでチェックしてます」

 東京本社から遠い地方を往復するだけで多くの時間を費やしてしまう以上、現地滞在時間はせいぜい1~2時間だし、その時間だけ体裁を整えておけば、いくらでもバツの悪いことは隠せる。

 だからこそ、NPOが企業に助成金を申請する際に、「その活動に対してどんな人がどれほどの満足度を得ているのか」を確かめられる仕組みを構築する必要がある。

 もっとも、そうした「支援される側の視点や満足度」に対する関心は、CSRの担当社員にはうすい。
 それゆえに、非営利活動法人の代表者のプレゼンテーションが上手なら、あっさりと数十万円から数百万円の助成金を提供してしまう。
 だから、どんなに有名企業から助成金を受け取っていることを誇らしげに公式サイトに掲げていても、それによって信頼できるだけの活動実態があると見込むのは、早計なのだ。

 支援される当事者の満足度が曖昧だったり、低かったりする場合、自慢できない。
 自慢できない活動実態でも、活動資金はほしい。
 そう考える非営利活動法人は、情報公開に消極的になるどころか、真っ先に世間体を取り繕うことになる。

 つい最近も、9月30日にろくでなし子さんを招いての公開イベントを企画したアムネスティ日本は、「諸事情により中止」と一方的に発表した。
 そのため、J-castニュースが真意を確かめる記事を書き、ろくでなし子さんがアムネスティの本部(ロンドン)へ問い合わせたところ、アムネスティ日本側がイベント中止を撤回し、予定通り開催すると発表する騒動があった。

 こうした騒動も、アムネスティ日本の活動実態に対する疑義が市民からの向けられるきっかけになるだろう。

 ただでさえ、アムネスティ日本は、世界最大の国際人権団体として2015年の世界大会でセックスワークの非犯罪化を目指し、セックスワーカーの人権を守ることを決議したのに、今年に入っても権利擁護の対象としてセックスワーカーを組み入れていない

 つまり、アムネスティ日本が掲げる理念「すべての人びとの人権が守られる世界を目指し、活動しています」は、とんだ大風呂敷になってしまっているのだ。

 「ろくでなし子氏の主義主張に反対する意見が数多く寄せられたため」という理由でイベントを中止し、ろくでなし子さんが本部に問い合わせた途端に慌てふためいて中止を撤回するなんて、「世間体を守ることしか考えてないじゃないか!」と批判されても、甘んじて受けるしかないだろう。

 「主義主張に反対する人が多い人の人権は守らなくていい」という態度を一度は見せてしまったのだから。

 こうした失敗事例から非営利活動団体の代表者が学ぶべき点は、活動理念をブレさせてしまえば、その活動の正当性も、社会的信頼も、いっぺんに損なわれるってことだ。

 それでも、やっつけ仕事で助成金を提供するCSR部署の社員は、相変わらず精査もせずにNPOに金を投じるのだろう。
 だが、消費者・株主=市民は、遅かれ早かれそういう企業を信用しなくなるかもしれない。
 残念なことに、非営利事業の担い手には、まだ社会的信頼より世間体を大事にしてしまう人たちが少なからずいるからだ。

 2015年末、「おっぱい募金」というイベントが議論になった。
 寄付をすれば、AV女優のおっぱいを1秒ていど触ることができ、寄付金がHIV/AIDS撲滅の啓発(STOP AIDS!)活動へ使われる(=非営利活動団体へ分配される)というスカパー!が長年続けてきたチャリティだ。



 ところが、「性差別だ」などの批判の声が上がり、中止を求めるネット署名なども始まったため、2016年は規模を縮小して続けられることが発表された。

 公式サイトで発表された情報よると、10月10日におっぱいを触らせる男優・女優2名ずつが参加し、場所は「新宿某所」、完全予約制にするという。

 おっぱいを触られるAVの役者が極端に減り、時間も短縮され、しかも手続きが面倒な完全予約制になれば、募金総額が前回を大幅に下回ることが懸念される。
 前回のように、のべ7000人以上が参加し、600万円以上の募金を集めたような成果を生むのは、かなり難しいだろう。

 募金の規模を減らしてしまえば、STOP AIDS!活動を行うNPOなどへ資金提供する総額も減ることにもなる。
 これは、チャリティで集めた金を取り扱う一般社団法人 未来支援委員会が、STOP AIDS!の活動規模を縮小してもいいと宣言したのと同じである。

 理念がブレても、「おっぱい募金」というコンテンツが続けられればいいという判断なのだろうか?
 そうだとしたら、立派な本末転倒だ。

 未来支援委員会は、おっぱい募金を企画し、「エロは地球を救う!」という番組を制作してきたリーレ株式会社が自社の中に設けた非営利活動法人だ。
 僕は、過去のブログ記事で「おっぱい募金」を擁護してきたが、同時に「おっぱい募金」に関する改善策を提示したり、未来支援委員会へ電話取材した記事も発表してきた。

 ところが、既に騒動から10ヶ月が経とうとしているのに、未来支援委員会の公式サイトには、この法人自体の収支報告は発表されていないし、募金を分配されたはずのNPOへの助成額面も公表されていない。
 理事長の名前にはリーレ代表取締役の「芝 強」さんの名前があるが、他の理事の名前は未公表だ。
 
 非営利活動法人の情報公開としては、そろそろ「未熟」では済まされない時期に、前年度よりはるかに募金総額が下回る懸念が出てきたわけだ。
 「STOP AIDS!」が活動理念なら、なぜ前年度と同程度の募金を集められる仕組みを作れなかったのか?

 社会には、困っている人のためなら、自分自身の知恵、経験、人脈、資金、労力、職業技術など「持っているものは何でも使ってくれ!」と願う人たちがたくさんいるし、そのような多様な市民や企業、自治体などからの共感を集めてこそ、NPOは崇高な活動理念を実現できるようになる。

 しかし、そうした社会資源に無関心だったり、無視してしまえば、活動理念が崇高であればあるほど「大風呂敷を広げてる」と冷ややかな視線を集めることになってしまう。

 活動理念をただの「ポエム」のままにし続けるか?
 それとも、団体内部の密室にこもらずに、外部のリソースを広く調達するために、真摯な情報公開をしていくか?

 これは、どんな非営利活動法人でも直面する課題だ。
 この課題の解決には、支援者と被支援者の間の関係を深め、被支援者から感謝の声が自発的に上がるような活動実績を積み上げていくしかない。

 そして、問題が浮上したら、早めに解決しない限り、活動の正当性や社会的信頼はいつまでも曖昧になり、それによって寄付や募金をより多く集めることも難しくなり、救えるはずの人を救えなくなる。

 誰からも感謝されない非営利活動って、いったい誰のためのもの?

 
【関連ブログ記事】
 おっぱい募金・主催者への質問と、アダルト社会貢献
 支援者と被支援者の思いのズレ ~ダマされてない?
 おっぱい募金の改善策を提案してみる


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■社会を変える子育てママ ~京都バリアフリー情報本

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 twitterで知り合った方から、本が届けられた。
 『改訂版 あかちゃんと一緒 京都おでかけ手帖』(萌文社)だ。

 「0歳からのおでかけガイドブック」と副題のついたこの本は、ママが赤ちゃんや小さな子どもと一緒に京都のまちを歩く時に必要な情報を調べ上げ、オールカラーで紹介している。

 授乳やオムツ替えのできる場所、エレベータの位置、ベビーウェルカムなお店などを示した地図に、ママたちが安心して移動できるルートや、親子で入れる飲食店、小さな子どもが喜ぶ店など、役立つ情報が満載で、たった1000円(+税)。

 地元を愛する子育てママだけでなく、京都を愛する国内外のママたちにとって有益かつ便利な本になっている。

 「おわりに」というあとがきを読むと、2015年7月に同題の本を出し、2016年5月に改訂版として本書を出版したようだ。
 ママさんたちが作ったことで、京都に親子で気軽に入れるステキな店がたくさんあることもわかったし、ベビーカーで移動する際のバリアフリー導線もよくわかった。

 Amazonには、こんな紹介文が載っていた。
小さなこどもをもつ、京都が大好きなママライター4人が、じっさいに京都のまちをあかちゃんと一緒におでかけして、取材・撮影・編集をおこないました。 
改訂にあたり、再度ベビーカーを押してまわって情報を更新! あかちゃんと一緒におでかけしやすいコースやワンポイントアドバイスも掲載しました

 これぞ、「ママ力(ぢから)」といえよう。
 僕がよく使う「当事者固有の価値」の1つだ。
 子育てママでなければ見えてこない現実を浮きぼりにできるってことだ。

 この本をきっかけに、授乳中のママでも気軽に外出し、お散歩やお買い物を楽しめるようになれるだろうから、オトクな1冊として妊婦へのプレゼントとしてもお勧めしたい。

 ただ、気になったのは、これだけの価値のある本が、どうして全国的に有名になっていないのか、という点だ。
 Amazonや楽天など複数のネットショップでも買えるが、国内外の京都好きの子育てママに情報が届いていないのだろうか?

 売れれば売れるほど、印税で次年度も最新情報を載せた本を出すことができるため、商品を作った以上、短期間に売れる仕組みを考えることは、京都のまちを子どもと一緒に散策したいママを増やせることになるし、出版社にも安心してもらえる。

 このような”公益に資する商品”を短期間に広報するための方法を、素人のママさんゆえに知らなかったのかもしれない。
 それはもったいないことだし、とても惜しい気がするが、気になる方は下記のサービスまでどうぞ。

★メディアから取材されたい方へ(マスコミ0円広報術 ~取材される技術)
★社会貢献活動を始めたい方へ(公益に資する商品・サービスの作り方・売り方)
★本を出版したい個人・企業のみなさまへ(自費出版ではなく、商業出版を実現する方法)

 ここでは、上記の本に対する読者からの感謝の言葉を紹介しておきたい。


●読者から感謝される本は、もっと売れる仕組みを作ろう!


最近では、赤ちゃんとの旅行に関する本も多くなってきている。
けれど、そういった本って「いかに周りに迷惑をかけないようにするか」といったノウハウばかり。
でも、この本は赤ちゃんと京都を旅行する楽しさがあふれてます。
「こんなおしゃれなお店がベビーウェルカムだなんて!」と驚くこと間違いなしの情報ばかりです。
honto.jpより)

子連れで出かけた時って、どこでご飯を食べるか本当に悩む。
子連れで行きやすそうな店をネットで検索するとたくさん出てきて選べないか、行き先の近くにないかのどちらかだ。
けど、この本を見てから行けば、自分の行き先の近くにどんな店があるのか一目でわかって良い。
あかちゃんがいる友達にもお勧めしようと思った。
honto.jpより)

孫がいるので、このような貴重な情報を本にしてもらうととても助かります。
ネット社会ですので、そのたびにエリア別に検索すればよいのでしょうが、手間もかかりますし、億劫になります。
子連れで気楽に楽しめるスポットを探すだけでも大変ですので、それらを一覧できるという本の特性には代えられません。
子連れでも気兼ねなく入店できるという情報だけでもどれだけ助かるかわかりません。
軽い紙質ですから、持ち運びも便利です。
本書は、子育て中の6人のママさんたちが調べ、取材し、マップを作っていました。
手作り感も満載ですし、ネットでは得られないような実体験に基づく情報が詰まっていました。
子育て中は移動も、食事も、ベビーカーでの入店も、おむつ交換も、授乳も一つ一つクリアするのが大変です。
レストランに入れば泣き声も周りの人の迷惑にならないかと気にします。
本書掲載のお店は、そのようなパパママを受け入れてくれるオアシスのようなお店ばかりですから、安心です。
そこの利用価値は大でしょう。
掲載店も普段使いできるお店が多く、写真も豊富で、住所、営業時間、定休日、内部の雰囲気などが伝わるように編集してありますので、地元の人は勿論、子育て中に京都観光に来られる人にも朗報だと思いました。
Amazonより)

私には未就園児のこどもが二人いますが、なかなか外出しづらく、ストレスがたまっていました。
でも、この本は子連れwelcomeなお店がたくさん載っているし、エレベーターや授乳室やおむつがえの場所まで細かく書いてあるので、気軽にでかけてみよう! という気持ちになりました。
また、割烹料理やフランス料理などの子連れでは絶対無理だろうと思ってたオシャレな店も掲載されていて、感激しました!
ネットで調べるよりわかりやすいのと、あまりこどもの前で携帯眺めたくないので、軽くて持ち運びしやすいこの本が、私のおでかけの相棒になりました。
Amazonより)

 子育てママたちが作ったこの本の読者は、作り手の属性に近い「子育て中のママ」や「孫と一緒にまちあるきをしたいおばあちゃん」などだ。
 かつて困っていた当事者の作り手が切実に欲しかった情報を詰め込むことができたからこそ、買って読んでくれさえすれば、圧倒的な支持を得ることができたのだろう。
 何度も言うが、これぞ「当事者固有の価値」による商品であり、サービスなのだ。

 もちろん、読んだからこそ、「もっとこういうふうに改善してほしい」という声も具体的に指摘される。
 でも、それは不満というより、期待だ。

 たとえば、「少し字が小さく読みづらい」とか、「ママが癒される場所、子連れウェルカムのカフェやネイルサロン、美容室やマッサージなどの紹介があると更に嬉しい」など、欲を言えば…レベルの指摘は既にネット上に散見される。
 これらは、解決できる仕組みを作れば、解決できるはず。
 とくに注目してほしい改善点は、Amazonに読者が書いた以下の文章だ。


本書に掲載がないもので有用なのは、ホテルでの授乳室や受け入れのサービス。
この点も京都は遅れていて、「京都ホテルオークラ」以外は使い勝手が悪く不満です。
記念日等に子育て中のパパママが来るのは普通にあります。
乳幼児を連れて京都観光する方もいるでしょう。
個室を使えば、食事時に他のお客様の迷惑にもなりません。
過去2回とも記念日に「京都ホテルオークラ」を使ったのは、他のホテルの受け入れ態勢が当方の思いに達していなくて、不十分だったからです。
授乳室の配慮がないホテルがほとんどですので。
本書の出版を機に、様々な施設で、子連れ家族の受け入れ態勢の充実が望まれます。
少子化が叫ばれていますが、子育てが不自由である内は、その解消も無理ならぬことかと思われます。
その意味でも本書の出版は、京都の街の子連れへの受け入れ態勢を知らしめるもので、その意味においても価値あるものだと思いました。
Amazonより)

 本は、ただ読むだけで終わる商品ではなく、商業施設や自治体などに本を送ることによって、子育てママが親子で外出しやすい社会環境を整えるアイテムになりうるのだ。
 それは、「ママが生きやすい社会にママ自身が変えられる」商品であり、同時に「育てた子どもが親になる頃には今より子育てしやすい環境に変えられる」商品であることを意味している。

 子育てママだからこそ、社会を変えられる。
 その強力なアイテムとして、この本がもっとたくさん売れてほしいし、そのためには売るための戦略や、読者ニーズにもっと応えられる仕組みを作ることが、今後の課題になるだろう。

 僕から1つ、リクエストをさせてもらえるなら、読者の裾野をもっと広げてほしい。
 障害児を育てているママや、車イスを利用している祖父母、自身が障害をもつママや、日本の習慣が・文化にうとい外国人のママ、観光やビジネスなどで京都を訪れるひとり親のママ、LGBTの親たちなど、なるだけ多くの属性の親子が京都のまちを楽しめる情報も加味してほしい。
 子育て中のママだって、さまざまな人材に声をかければ、省力化を図りつつできるはずだから。

【関連ブログ記事】
 子育てを頼り合う仕組みを作ればマンションも売れる
 保育園問題は、民間で市民自身が解決できる
 トロフィーチャイルドの「良い子」のまま生きていける?


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■支援ポルノを避けるには ~非営利事業の正当性

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 民主主義の基本は、市民自身による自治だ。
 市民自身が社会的課題を解決するのを前提に、それが市民の間でどうしても難しい場合、自治体や政府などに収めた税金である公金に頼り、その公金を分配する政治による法制度化で課題解決を図ろうとする。
 それが、民主主義社会の本来の姿であるはずだ。

 しかし、この自治マインドを戦後70年間の義務教育で育ててこられなかった日本では、政府の失策の尻拭いのように市民活動が生まれることになる。
 日本では、NPOやCSRなどの非営利活動法人を作り、市民活動として社会的課題の解決に取り組むことは「第2の政府」の創出を意味し、それゆえにその活動の当初から「公益」を目指すことが求められる。

 公益とは、文字通り、「みんなにとって有益」という意味だ。
 「みんな」とは、活動に携わる人、その活動によって直接に救われる人、そして第三者として活動を評価する人のすべてを含む。
 市民活動そのものが、社会のすべてのステークホルダー(利害関係者)を意識して運営される必要があるってことだ。

 もちろん、みんなにとって役立つだけの活動内容を実現しなくても、取材の甘いマスメディアに持ち上げられる市民活動を行う非営利活動団体も少なからずある。
 だから、NPOなどの非営利の支援活動は、第3者であるメディアによって持ち上げられることだけでは正当化できないし、大企業から助成金をもらっていても必ずしも信頼の担保にはならない。

 支援活動が正義になるのは、たった1つの条件を満たす時だけ。
 それは、活動で助けられたはずの人自身が、感謝の声を社会に発信することだ。

 しかし、とても残念なことに、一部の団体にはその活動における支援する側・支援される側の間のギャップを埋めないまま、ひとりよがりな活動を誇らしくメディアに伝えているところもある。
 それは、助けを求める人たちからの期待のハードルを自分で上げてしまっているようなもの。
 高下駄を履けば、いつかは、高下駄を自ら履いた人だけが転んでしまう。

メサイアコンプレックスの人が克服する為に周囲が出来ること!より


 最近、風俗嬢のセカンドキャリア支援を標榜する一般社団法人 GrowAsPeople(代表・角間惇一郎)に対して、同団体へ相談と支援を求めた女性たちが、相次いで不満違和感の声を上げ始めている。
 この問題は、このままこじれ続けると、年を越しそうだ。

 そうした女性たちの一人とSkypeで話した際、彼女は同団体の活動について「助けたいハラスメント」という言葉を造語して説明した。

 
 団体にとって支援対象である当事者のニーズを満足させることができない活動内容は珍しくなく、支援者のできる支援と、被支援者の求める支援の間には必ずギャプがある。
 そのため、両者の思いのギャップを埋めることは、どんな活動団体にとっても常に課題だ。

 このように課題を指摘しただけで、「あの団体をdisってる」などと勘違いする人がいる。
 課題があれば、それを解決するのが、非営利活動団体の通常業務である。
 この通常業務は、営利目的の企業で言えば、消費者にとってより満足度の高い商品を創意工夫と努力で開発・提供するのと同じだ。

 そもそも、問題提起(=課題を指摘すること)と、批判(dis)することは、似ているようで、まったく別の意味合いの行為。
 課題を明確に指摘することは、その指摘の内容の中に”解決できる仕組み”を示唆している分だけ、指摘された相手に改善の見込みがあると信頼の余地を残しているからだ。

 だから、このブログ記事では、「助けたいハラスメント」(支援ポルノ)が起きてしまう条件と、その解決方法を、あくまでも一般論として指摘しておきたい。

既存の救済インフラでは、いつまでも満たせない乾き

 僕はかつて、15年以上も自殺志願者の取材を続けていたことがある。
 そこで思い知ったのは、自殺まで思いつめるほどの当事者は、誰の助けも自分のニーズを満たせないと認知していることだった。

 どんなに愛情をもって接しても、フルマラソンを完走した後にペットボトルの水だけでは乾きを癒せず、飲んだ気がしないように、あるいは、砂漠の熱砂にどれだけ大量の水をまいても瞬時に水蒸気になってしまうように、自分の求めを恒常的に満たせる安心を認知するのが難しい。
 そうした心性を、自殺にまで追いつめられた当事者たちは持っていた。

 自殺にまで追いつめられた背景は、貧困・孤独・人間関係のもつれ・病気の悪化などさまざまだが、共通していたのは「既存の救済インフラではいつまでも満たせない乾き」に耐え続けていた点だ。
 この乾きに耐えきれなかった時、自殺による死は現実のものとなる。
 僕は友人の葬式でこれを痛感せざるを得なかった。
 そして、自分がどれだけ無力で、ちっぽけな存在なのかを、心底思い知ることになったのだ。

 「救われるより、ここにいたい」とは、90年代末の某マンガのキャッチフレーズだが、「ここ」とはどんなに良識派を強いる人たちから批判や心配をされるような、”どす黒く救いようのない環境”のことだ。
 「既存の救済インフラではいつまでも満たせない乾き」は、その当事者を自殺へと導くものであると同時に、かろうじて今日を生き延びるために必要悪とわかりつつすがった「藁」(わら)である。

 自分を殴る恋人との暮らしも、彼がいない虚無や孤独に比べれば、はるかにマシ。
 ホームレスのまま死ぬ人生でも、生活保護を受給して仲間から外れるよりはマシ。
 そういう考えを「認知のゆがみ」と指摘するのは簡単だし、中学生でも言えることだ。

 「幸せのカタチくらい、自分に決めさせてほしい」と望むところに自尊心があることを、忘れてはいないか?
 他人に幸せのカタチを先回りして決められられるのは、誰だって気持ち良いものではないし、幸せのカタチを押しつけることを正義のように語られたら、反論する気も失せてしまうのでは?

 彼らの自尊心を守ろうとするなら、彼らの認知を否定しないことが、真っ先に当事者である彼ら自身から求められる。
 「死にたい」と訴える人に、「死ぬな」と言うことは、ケンカを売っているようなものだ。
 人にはそれぞれ、自分がいま信じている幸せのカタチがあるのだから、そのカタチに至るまでの履歴や心情を知ろうとすることが、支援活動に携わる人にとっては最優先かつ最低限度の仕事だろう。

 ところが、大変困ったことに、支援活動の団体の代表には、自分の幸せのカタチを疑うことなく、そのカタチを平気で被支援対象者に強いてしまっていることが珍しくない。
 たとえば、「がんばって大学に行って就職しようね」と呼びかける若者支援団体もあるが、それを求める被支援者もいれば、どうしても文科省が勝手に決めた科目や勉強内容が嫌な人もいる。

 そもそも、「高学歴にならないと高収入が見込めない」という社会の生きづらい仕組みをそのままにするのでは、ソーシャルデザイン(社会設計)ではない。
 「高学歴にならなくても高収入の道が拓ける」という生きやすい仕組みを新たに作り出すのがソーシャルデザインの本質だ。

 そこで、団体側が既存の仕組みを変えようとしないまま、「僕らの助けたいように助けられてくれ」という姿勢に居直れば、ただでさえ「既存の救済インフラではいつまでも満たせない乾き」を持つ被支援者は、自分の幸せのカタチを否定され、「藁」を奪われる思いがするだろう。
 そして、団体に救いを求めた自分の期待が過剰だったことを自嘲・自責し、この社会に新たな失望を覚えるだけだろう。

 被支援者にとって満足度の低い活動を続けていれば、「あの団体は弱者をダシにしてメシを食っている」とか、「支援されている弱みから不満が言えない人たちにつけ込んで稼いでいる」などのそしりを免れない。

 それが理解できれば、解決すべき課題は、団体の側がひとりよがりな支援活動の内容を見直すことだ。
 では、具体的に何をすればいいのか?
 それを端的に示したい。


●当事者に恨まれても、関係を続ける覚悟はあるか?

① 定性的なフィールドワーク調査を精緻に行う

 被支援者の満足度の低い活動になりがちな支援団体の特徴として、定量的な分析に時間・労力・資金を優先しがちという点がある。
 定量的な分析をすること自体は必要なことだが、それだけでは現実の被支援者の深刻さを十分に把握できない。

 むしろ、同じだけの時間・労力・資金を定性的なフィールドワーク調査にもつぎ込むことで、定量的な分析では見えなかった泥臭い現実を思い知ることができる。
 深刻な現実を直視するには、精神的な強さが求められるが、被支援者にとって満足度の低い活動で批判されがちな団体の代表者ほど、定性的なフィールドワークを怠るために被支援者との関係に問題を生じやすくさせてしまっている。

 その構図は、団体の活動に対する社会的な評価を下げさせることはあっても、上げることにはならず、活動自体の持続可能性も遅かれ早かれ危ぶまれることになる。
 だからこそ、速やかな改善が必要なのだ。

 既存のスタッフには定性的なフィールドワークを得意とする人材がいないなら、団体の外側に広がる社会から社会学者やフリーライターなどに声をかけ、代表者を含め、スタッフのスキルを鍛えてもらい、定量的な分析で見えなかった当事者ニーズを浮き彫りにするといい。

 「何が問題なのか?」を判断する主体は、あくまでも切実に苦しんでいる当事者であり、支援者ではない。
 当事者から判断の主体性を奪うように、当事者の思いを先回りして代弁しても、事情を知らない世間知らずの「良い子ちゃん」にしかほめられない活動しかできない。
 同じ泥にまみれたくない人を、誰が「支援者」と呼ぶだろう?
 支援活動に携わりたいなら、このことを胸に刻んでおいてほしい。

 なお、支援する・支援される上下関係では、支配関係に陥りがちになる。
 最先端の非営利事業では、両者が分かち合える活動理念が設定され、「支援から協働へ」が目指され、対等な関係を築くことが当たり前になりつつある。

② 代表者自身が被支援者と日常的に、深くつき合う

 そもそも定量的な分析には、「何を問題としてとらえるか」を支援者側が一方的に判断する段階で、被支援者のニーズとは別次元の統計しか導けないという難点がある。
 同時に、苦しんできた人にしか持ち得ない「当事者固有の価値」という宝を、当事者からタダで搾取し、独占的に奪略してしまう恐れすらある。

 そこで、どうしても必要になるのが、支援を求める当事者たちから信頼されること。
 それまでうかつには言えなかった本音をうちあけてもらえるまで、日常的に、かつ、深くつき合い続けることだ。

 本音は、浅い関係からは聞き出せない
 支援者に対して「この人ならどんなこともドン引かないで受け止めてくれる」という安心感を覚えない限り、本音を言い出せないのが、深刻な事情を生きてきた人たちかもしれないのだ。

 人によっては、本音や事実を言い出すまでに数年間もかかるかもしれないし、数ヶ月間で済むかもしれず、話を聞く側は常にその心の広さを試されている。



 この画像は、『ホームレス農園』(小島希世子・著/河出書房新社)という本の帯にある本文からの引用だ。
 神奈川にある著者の会社が運営する農園には、農作業をしに、ニートや引きこもり、不登校の当事者たちが集まってくる。

 彼らに向き合う小島さんが書いた上記の文章は、「がんばれば報われる」(祈れば神風が吹く)といったような根性主義(念力主義)ではない。
 被支援者が、どんな属性であろうとも、どれほど深刻な履歴の持ち主だろうと、辛抱強くつき合いを続け、少しずつ少しずつ心を開いてもらうプロセスの大事さを示したものだ。

 支援者の方が自分の認識を改めるような「目からウロコ」の現実を、当事者たちと年月をかけたつき合いから発見しなければ、当事者ニーズからそれた支援内容しかできないことを、彼女も畑で被支援者と同じ汗を流す泥臭い経験を重ね、思い知ったのだ。

 「既存の救済インフラではいつまでも満たせない乾き」を持つ当事者とつき合えば、「良かれと思って」始めたことであろうと、恨まれ、嫌われ、疎まれることを覚悟しなければならない。

 それまで数々の人から裏切られたという思いを持て余してきた人の中には、活動団体の代表者からも裏切られたと感じれば、夜な夜な「あいつなんか死んでしまえ」とせつない呪いをかける人すらいる。
 そうした当事者の抱える闇の深さを受け止める覚悟に向き合わなければ、当事者と対等な関係を築くのは難しいだろう。

 恨まれるのを覚悟しながらも関係を続けていくことは、とても愚直な作業であり、修行のようなものだが、これを避け続けたままでは、いつまでも当事者満足度の低い活動を続け、取材不足のメディアにしかほめられない。

 LINEやメールなどの便利なツールを使えば、被支援者と深い関係を築けるなんて勘違いを続けている代表者が団体にいれば、その団体はネット市民はもちろん、世間からも知らず知らずのうちに後ろ指を刺されるようになってしまうかもしれない。

 だからこそ、団体の代表者には、支援を求める当事者との関係を築くのに必要な時間・労力・資金をマネジメントできるスキルと能力が求められるのだ。

③ 団体内部に被支援者の「当事者コミュニティ」を作る

 当事者とのつき合いを大事にしようと思えば、団体の活動理念を表す言葉を公開する際に、大風呂敷を広げてはいけない。

 たとえば、「風俗嬢のキャリアを支援する」といっても、風俗のあり方自体がソープ、ヘルス、マッサージ、デリヘル、立ちんぼ、ストリップ、特攻、SMクラブ、ウリセンなど多様にあるため、それらすべての当事者たちを救えるかのような期待を抱かせては、裏切られた思いをする当事者を増やすだけだ。

 当然、支援対象を絞り込むと同時に、現実にどんな支援活動ができているかをふまえて活動理念を公言せざるを得ないはずだ。

 たとえば、「デリヘル嬢をやめたい人向けに広告営業の仕事を提供し、将来設計の一つにしたい」という具合に、等身大の活動だけを理念化しておかないと、「実現してない夢まで売るなよ」と突っ込まれても甘受するしかないだろう。

 逆に、企業から助成金を調達したり、メディアから取材を受ける際に、大風呂敷を広げておく方が歓迎されやすく、可愛がられることに味をしめると、いつまでも「被支援者の方を向いていない」と多方面から睨まれ続ける。

 それは、端的に損なことだし、支援者が被支援者に対等な関係を求めておらず、支援の名の下に支配を求めてしまっていることの証拠になってしまう。

 経営者や業界上層部が徹底した耳障りのいい美辞麗句で介護職員や介護関係者を洗脳して、モチベーションを上げさせて奴隷労働に向かわせる人材マネジメントを、中村淳彦さん「介護ポエム」と呼んだ。

 介護事業者が介護職員を洗脳するように、支援者が被支援者と対等な関係を築こうとしない組織には、「助けたいハラスメント」(支援ポルノ)が生じやすくなるのだ。

 活動理念で大風呂敷を広げれば、ポエムにしかならないのは当然だろう。

 しかし、当事者との関係を深められるなら、支援者はその試行錯誤の中で自分自身が支配的な振る舞いをしていることに気づくし、被支援者との信頼を揺るぎないものにしようと努力を続けていけば、次第に被支援者たちを味方につけ、団体内部で彼らの「当事者コミュニティ」を作れる。

 実は、最初から当事者たちが集まって立ち上げた非営利活動団体は、どんなことを優先的に解決すべきなのかが具体的にわかっている。
 だから、当事者満足度を上げていくための努力を惜しまないし、その努力の必要を日頃から実感している。
 そのため、活動理念を明文化する際も大風呂敷を広げないし、活動を継続していっても理念がブレにくい。

 もっとも、団体を立ち上げた後でも、「当事者コミュニティ」を作るのは遅くない。
 当事者たち自身によるコミュニティを団体が内部に抱えておけば、当事者が日常的に団体の事務所を訪れ、ニーズを伝えるチャンスが増える。
 おかげで、支援側の代表やスタッフと対等な関係を築くのも容易になるし、そこで団体と当事者コミュニティの間に風通しの良い「交渉の余地のある関係」が築ける。

 そして、結果的に当事者の声を担保にした活動に育ち、社会的な正当性を付与しやすくなる。
 当事者の中には、メディアに顔や名前を出したい人もいるだろうから、取材を受ける時も「当事者の声」に信頼を裏打ちされた活動団体として胸を張れる。
 当事者たちが団体の活動内容に対して感謝の声を自発的に上げているなら、世間も一応はその活動に納得するのだから。
 支援活動を標榜する団体のスタッフは、そこで初めて自分たちがやってきた活動内容に誇りを持てるのではないか?


 浅い取材ではない、本物のジャーナリズムが取材時点で求めているのは、「支援を求める当事者ニーズに裏付けられた活動なのか?」に十分に応えられるだけの信憑性だ。
 非営利活動団体の代表者が一方的に言うキレイゴトを、検証することなく鵜呑みにして報じるメディアも一部に根強くある。

 だが、取材経費や執筆ギャラがカットされるばかりの現状では、そんな上っ面な報道しかできないメディアは、遅かれ早かれ、読者・視聴者からそっぽを向かれるだろう。
 そして、誰よりも、支援を期待する当事者(とその予備軍)たちから不信感を持たれれば、ネットの世界ではアーカイブとしていつまでも不審がられ続けるだろう。
 とくに映像は、ディレクターが凡庸だと、伝えたいこと以上の意味までうっかり伝えてしまう。

 NHKの番組私たちは買われた ―少女たちの企画展―』を観ても、さまよえる女子高生たちを支援する団体に対する被支援者の感謝が、礼儀や挨拶程度だとよくわかった。
 それは、団体の提供する支援内容が、被支援者にとって大いに満足するほどには足りてないことを示す決定的な証拠だった。

 今日、誰かを「弱者」と見込んで動き出したいメサイヤコンプレクスに無自覚な人は少なからずいて、彼らの言う大風呂敷によって社会に対する失望を深める人も増えている。

 誰かを本気で「助けたい」と思うなら、「支援される側に十分満足してもらえるだけの活動内容を作れるかどうか?」「なぜ自分は誰かを一方的に弱者とみなし、助けようとしているのか?」を、真摯に自問してみてほしい。
 自分の能力・経験・スキルの不足に居直ることで、被支援者からの怒りまで買うような愚かさを犯す前に。

 人と人とは、気持ちを通じ合わせようとしない限り、関係悪化のトラブルがあらぬ方向へ飛び火することもある。
 それは、とてもつまらないことだ。

 人は誰でも、きれいに生きてるつもりでも、知らない間にいろいろホコリがついている。
 カッコ良いところだけ見せようとすればするだけ、ボロやホコリが見えてしまう。
 たかが人間じゃないか。
 神じゃない。
 高下駄を履いて、どうするよ?

 遠回りでも、恐れずに、自分の無力を徹底的に思い知る経験に飛び込んでみてほしい。
 自分よりはるかに深い知見や重い経験を持つさまざまな人材に声をかけ、自分の能力不足を痛感してみてほしい。

 絶望を知る者だけが、絶望を生きのびようとしている当事者の心に届く言葉や課題解決の仕組みを獲得できるのかもしれないのだから。

【関連ブログ記事】
 セックスワーカーが本当に求めている法律とは?
 セックスワーカーが、大切な人に知ってほしいこと
 今年のおっぱい募金は変! ~非営利事業の信頼
 支援者と被支援者の思いのズレ ~ダマされてない?


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■10・8 助けたいハラスメント(支援ポルノ)を語るオフ会

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 「支援ポルノを避けるには」というブログ記事は、多くの方の関心を集めた。
 そこで、「助けたいハラスメント」(支援ポルノ)に関して気軽に話のできるオフ会を、東京・新宿で急きょ開催します。

●対象:以下の方向けのオフ会です
 ① NPOなどの非営利事業の世話になり、違和感を覚えた経験のある被支援当事者
 ② NPOなどの非営利の社会貢献・福祉事業に従事するスタッフ
 ③ 非営利事業の現状に関心のある報道関係者や、ソーシャルデザインの研究者


●日時:2016年10月8日(土) PM5:30-7:30 (※延長有。移動する場合も)

●集合場所:新宿アルタ ビジョン下(※PM5:20頃までに集合)


●参加費:600円+1ドリンク~ (※600円は会場費の1人分。ドリンクは各自精算)

●参加予約:下記のメール・アドレスに、氏名・ケータイ番号・簡単な自己紹介を添えて送信
 conisshow@gmail.com今一生
 ※先着予約で10名様まで。10名に達し次第、予約を〆切ります
 ※「予約完了」のメールが届いたら、予約完了

●オフ会の場所:予約完了者に当日、集合時間までにメール
 ※届かない場合は、予約完了メールにある電話番号にお問い合わせください

●備考:下記を必読

 ※必ず1人でお越しください

  お友達を誘いたい場合は、お友達に予約の手続きをお知らせください。
  会場に席やスペースが無いため、予約完了していない方のご参加はお断りします。

 ※当日にキャンセルされる場合、ペナルティはありませんので、お気軽にお知らせください。


 ※あくまでも「助けたいハラスメント」(支援ポルノ)を話題の中心にしますので、以下のテキストや『よのなかを変える技術』(河出書房新社)を事前に読んでおくと、より有益なオフ会となります。


今年のおっぱい募金は変! ~非営利事業の信頼
支援者と被支援者の思いのズレ ~ダマされてない?

 ※お時間のある方は、下記の動画もご覧ください



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■12・3 埼玉で講演『会社に殺されず、生き残るために』

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 電通に入社し、長時間勤務で心労がたたり、たった9ヶ月で自殺してしまった女性社員がいた。
 この事件は、労働問題の改善が見込めない職場が少なからずある現実を浮き彫りにした。

 しかし、この事件は、労働問題だけに収まるものではないだろう。

 たとえ、労働環境が改善されても、従来のレールを信じているだけでは、働きがいや生きがい、自尊心などを自分でつかみとり、自分の人生を自分で作っている実感は得られないままだからだ。

 とくに、東大卒のような高学歴をもち、高収入が見込める電通に入社すれば、将来の経済的な安定につながるのだから、勤務先に言われるがままに頑張ってしまう方が、それ以外の選択肢を考えるより楽だと思ってしまう人は少なくない。

 すると、数十年後に勤務先の会社が大型リストラを行って社外へ吹き飛ばされても、「運が悪かった」と下を向くばかりで、再就職が難しいという現実に向き合えない事態を招いてしまう。
 実際、バブル入社組で中高年を迎えたSonyやPanasonicなどの名だたる企業がグローバル経済圏で勝ち抜けず、正社員の座を追われた人は珍しくない。

 そうでなくても、勤務先が有名企業であればあるほど外資系企業に買収される恐れも高まり、管理職になった途端に退社を余儀なくされることもあれば、定年まで勤め上げたのに年金制度改革で収入を失うことも、このまま自民党政権が続けば、現実のものとなるだろう。

 そして、最近では「副業OK」を発表する大企業が珍しくなくなった。
 これは、「昇給やボーナスをこれまでと同じように期待してくれるな」(=足りない分は自分で稼げるように早めに備えておけ)という経営者の思惑を反映したものだ。
 つまり、高度経済成長時代とは異なり、「正社員でがんばっても新築一戸建てや新車の購入や子育ての夢は持てない」時代に既に突入しているのだ。

 それでも、辞めた時に潰しの利かない正社員の働き方にしがみつくの?
 それとも、いつでも辞められるように、自分のやりたいことで稼げる準備を始めるの?

 会社や親などに生活の安定を期待できる時代が終わった今、がんばればがんばるほど報われず、正社員として働くことは過労死などのリスクが高まる。
 正社員にしがみつくのは、もう、恐ろしい働き方になりつつあるのだ。
 そこに早く気づけば、会社に追い出されようと困らない仕組みを作る準備期間に余裕を持てる。

 そこで、「会社に殺されず、生き残るために」をテーマに、12月に埼玉県狭山市で講演会+懇親会を開催する。
 これまでの「レール」を見直し、さまざまな働き方のモデルを学び、「いつ正社員の暮らしと縁を切っても困らない準備とは何か?」を具体的に語りながら、みんなと一緒に考えたい。
 埼玉県民だけでなく、全国から駆けつけてみてほしい(※ネット中継なし)


■講演会+懇親会 『会社に殺されず、生き残るために』

★日時:2016年12月3日(土)
 AM12:30 開場・受付
 (※50席のみ。予約受付中)
 PM1:00-3:00 講演会
 (※ノートやレコーダーの持参OK。スマホによるSNSでの拡散も歓迎)
 PM3:00-5:00 懇親会
 (※任意参加。懇親会のみの参加はできません。先着予約順に10名限定)

★場所:狭山市民交流センター
   https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/topics/siminkouryucenter.html
 講演会→研修室
 懇親会→会議室

★地図:狭山市駅前(西口)
 ※最寄り駅の狭山市駅は、西武新宿線。
  狭山市駅は、西武新宿駅から1時間程度。
  あなたの最寄り駅からは、Yahoo!路線を参照。
  他県から参加される場合は、新宿あたりでホテルやカプセルホテル、マンガ喫茶を検索。
  新宿までの安上がりな移動は、バスタ新宿を参照。


★参加資格:一切不問
 年齢・国籍・学歴・性別・職歴など、一切不問。

 ※車イスをご利用の方も、狭山市駅から会場までスムーズに移動できます。
 ※手話通訳をご希望の場合は、事前にご本人自身が
  狭山市・手話通訳派遣事務所までFAXかメールでお問い合わせください。
http://www.sayama-shakyou.or.jp/welfare/sign/sign01/index.html

★参加費:講演会と懇親会は別会計
 ※懇親会は任意参加

 A 講演会
 ◎当日一般料金:2000円
 ◎障害者割引料金:1000円(※受付で障害者手帳を掲示)
 ◎生活保護割引料金:1000円(※受付で自己申告)
 ◎18歳以下割引料金:1000円(※学生証もしくは年齢証明IDを提示)
 ◎学生割引料金:1500円(※受付で学生証を提示/19歳以上22歳以下のみ)
 ◎著者割引料金:1500円(※『よのなかを変える技術』を当日持参の方)
 ◎前売り予約料金:1500円(※詳細は下の別項を参照)

 B 懇親会:100円
  (※お菓子とソフトドリンク付き。入場時に受付で同時精算。先着予約で10名限定)

★前売り予約:以下のどちらかの手続きを
 ※50席が売り切れ次第、前売り終了
 ※販売終了の際は、ブログ『さやまドキドキ』で発表

 ①下記の主催者に名前・年齢を11月27日までにメール
   yyporte@gmail.com担当者:西島正人)
  ※メールのタイトルに「12・3参加予約」と必ず記入
  ※当日は、受付で自分の名前を伝えて精算
  ※2人以上で参加したい場合も、個別にメールを送ること

 ②狭山市駅前・西口の歩道橋の上で、前売り予約チケットを販売。
   午後4時30分~8時の時間帯で、10/27(木)、11/4(金)、11/11(金)、11/18(金)、11/25(金)のみ販売。

★お問い合わせ:メールもしくは電話で
 yyporte@gmail.com担当者:西島正人)
 080-3792-0071担当者:西島正人)

★講師:今一生(Con Isshow フリーライター、編集者)
 1997年、『日本一醜い親への手紙』(メディアワークス)を企画・編集し、10万部のベストセラーに。著作に『よのなかを変える技術』(河出書房新社)、『ソーシャルデザイン50の方法』(中公新書ラクレ)、『社会起業家に学べ!』(アスキー新書)など多数。
 最新刊は、猫写真コラム集『猫とビートルズ』(金曜日)。
 編著に『子どもたちの3・11』(学事出版)など。
 雑誌記事や書籍の執筆・編集の仕事以外に、社会貢献事業を始めたい人への相談事業本を出版したい人への相談事業講演やりたい仕事を自分で作り出したい方への相談事業、テレビ番組企画、独立するタレントのプロモーションなど、やりたい仕事を自分で続々と作り出している。

★参考動画:電通社員の自殺について、今一生が語ったツイキャスのログ
 ※語りだけなので、「ながら聞き」が可能





 友人・知人にこのイベントを知らせたい方は、このPDFのチラシをダウンロード→プリント→コピーして配布するか、この記事の下にあるSNSの拡散ボタンを押してほしい。

 また、このようなイベントを自分の地元で開催し、今一生を招きたい方は、今一生(conisshow@gmail.com)までご連絡を。
 初めての方にもわかりやすく開催方法を教えながら、開催に伴う費用を賄える資金調達などの方法を一緒に考えたい。

【関連ブログ記事】
 支援ポルノを避けるには ~非営利事業の正当性
 そのイベントは、「ソーシャル」か?
 メンヘラビッチな当事者BAR、予約スタート

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■10・22 突発オフ会 ~東銀座で会いましょう

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 突然ですが、オフ会をします。
 日頃、twitterやFacebookなどでやりとりしてるみなさん。
 一緒にお茶でも飲みながらお話しませんか?

◎日時:2016年10月22日(土) PM3:00-5:30

◎場所:東銀座駅 歌舞伎座前に集合

◎参加費:喫茶店のお茶代のみ(※各自精算)

◎参加枠:予約先着5名のみ

◎参加方法:下記の今一生のメールまで、氏名・ケータイ番号・自己紹介を送る
  conisshow@gmail.com今一生
  折り返し、こちらのケータイ番号を送ります。当日、歌舞伎座前から電話ください。


◎備考
 ●『よのなかを変える技術』など、今一生の編著作品をご持参の方にはサイン
 ●参加者ゼロでも、歌舞伎座周辺のカフェにいる予定
 ●カフェでは、各種相談も受け付けます
 ●初対面、歓迎!(学生も可)

【関連ブログ記事】

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■電通社員が命で教えた「右上がり成長の終わり」

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 電通自殺について、ずっと考えている。
 なんとも言えないやりきれない気分が続いているのだ。

 東大卒で、電通に入社してたった9ヶ月で過労で自殺した24歳の女性がいた。

 電通での過労自殺は、これが初めてではなかった。
 こうした過労自殺を、ただ労働環境における法制度やその運用の問題としてとらえるだけでは、同じことが繰り返されるだけだろう。

 法律は一朝一夕には変わらないし、過労を強いる仕組みを電通と同じように多くの企業が体質として維持している以上、いつまでも勤務先の言い分に従っていれば、自殺をなんとか避けられたとしても、精神的に追い詰められたり、体の健康を害してしまうかもしれない。

 それも、結局は勤務先の中では自己責任として片付けられる形で。

 そろそろ、「優秀さ」について振り返る必要があるのではないか、と
僕は思う。
 東大まで進学して、多くの知識を得たはずなのに、その知識の意味をふまえて自分の人生に活用できないのであれば、それまで詰め込んできた「知」とはいったい何なのか?

 学校という特殊な文化にある恐ろしさについて客観的に検証することもなく、学校という社会に自分がコミットしないまま社会に出れば、「知」は勤務先を喜ばせるスキルにはなりえても、働く自分にとっては空虚で無力なものでしかないだろう。

 日本の戦後における学校の役割は、優秀な官僚と社員を養成するためのものだった。

 学校の最優先の目的は、生徒がやがて「雇われる」ことを前提に、権力者や経営者にとって使いやすい人材に仕立て上げることだったのだ。
 だから、小・中・高・大のどの段階でも、学校は以下の4条件に見合う児童・生徒を求めてきた。

① ガマン強くて、学校内にイジメなどの問題があっても、学校側に解決を求めない
② どんなに勉強の成果が上がらなくても、「私の能力不足」と自分を責めるだけ
③ 学校が体罰や自殺などの不祥事を抱えても、「報道関係者には話すな」と箝口令を敷く
④ 教員や生徒が自殺やひきこもりをしても生徒間で無関心にし、解決の仕組みを作らない

 この学校的な体質を疑わないまま、目先の勉強だけに集中していれば、自分がその学校の一員である当事者性は育たない。
 校旗を掲げ、校歌を歌おうとも、愛校心など生まれない。

 僕は愛校心など必要ないとは思うが、ここで考えておきたいのは、校内で起こる問題(例:いじめ、クラブ活動の予算のゴタゴタ、先生の教え方など)について、誰も自分事のように思えないとしたら、「自分はこの学校をよりよい場所へ変える権利を持っている」とは認知できないってことだ。

 たった数十人の教室の中であっても、「自分がこのクラスをもっと生きやすい場所にできる権利を持っている」という思い入れすら持たされることがなければ、いざ卒業し、就職しても、自分が勤務先に対してものを言える権利を持っていることにすら思い当たらないだろう。

 権利意識を持たないことは、自分自身の尊厳を守ることを正当だと認識できないことだ。
 それに気づいた権力者や経営者は、彼らにとって都合の良い人材を「優秀」と呼ぶことになる。


 学校は、子どもを大人にとって都合の良い人材に仕立て上げる場所だ。
 大人は常に時代遅れなので、「何かがおかしい」と違和感を覚える子もいる。
 しかし、その疑問は、目先の勉強のためにかき消されてゆく。

 それでも、「たかが文科省の役人が勝手に作った教科の成績で一喜一憂するなんてバカバカしい」と思えた瞬間から、この点取りゲームを仕掛けている大人たちの思惑にハッと気づく子もいる。
 実は、そこでようやく近代の子どもは大人たちによる洗脳から目覚め、自分自身で自分の尊厳を守らなければ生きていけない社会の現実に触れるのだ。

 逆に言えば、自分が何を覚えさせられ、誰のためにがんばりを強いられているのかにピンとこないままだと、いつまでも文科省の役人が仕掛けた洗脳が解けない。
 自分が本来学びたいことが与えられた教科ではない場所にあることや、「自分がワクワクできることを仕事にしていいんだ」という気づきにも至らず、これだけ不況が叫ばれていても正社員として働くことが安定であるかのように妄信を続ける。

 この遠因は、70年前の敗戦で日本に民主主義がもたらされたのに、学校では民主主義を知識としては叩き込まれても、マインドとしては理解できないまま、権利意識を育てない学校の言いなりにされてきた点にもある。
 前述したように、学校自体が民主的ではないし、生徒にものを言う権利意識を育ててこなかったのだから、「社会は交渉の余地のないものだ」と刷り込まれてしまう子どもが増えるのも当然だ。

 しかも、戦後の高度経済成長の時代には、教師や上司との交渉の余地がなくても、ガマンして働けば豊かになれた。
 「金になるなら民主主義なんて贅沢は言い出すな」という空気を作ってきてしまったのだ。

 この「成金体質」は、90年代に入って低成長時代を迎えると、ただの無理強いにしか見えなくなるため、人々はようやく「ブラック企業」という言葉を手にした。
 そもそも、高度経済成長からバブルまでの日本企業は、どこも「ブラック企業」にすぎなかった。
 「24時間、戦えますか?」という栄養ドリンクのCMがTVに流れた時、誰もクレームをつけなかったぐらいだ。

 子どもは、学校で権利意識を奪われ、社会に出ると「民主主義なんて贅沢」という成金体質に染め上げられ、「おまえは劣っている」「上には上がいて、おまえは下」という同調圧力で束縛し合う社会を当たり前のものとして受け入れるようになってしまった。
 実際、大衆を支配したがる人は、「どうせおまえにはできない」を徹底的に刷り込む。

「東大出身でないおまえには高収入は無理」
「会社で出世できない奴には起業は無理」 
「ニートやひきこもり、メンヘラには仕事は無理」 

 そんな理屈では割り切れないほど多様な選択肢が現実の社会には豊かにあるのに、支配者に居座りたい人たちは、それを見せないのだ。
 そういう格付け社会では、国民は力の強い人たちに支配されやすい。
 権力・財力・コミュ力などの力の強い人が上位に君臨し、彼らは弱さの価値を認めないように大衆を平気で洗脳する。
 自己否定を強いては強者の基準に従わせようとし、従えない者の尊厳を奪おうと洗脳する。
 高学歴でなければ、高収入になれないという不安と恐怖によって洗脳し、支配するのだ。

 仕事さえがんばれば誰もが豊かになれた高度経済成長は、その洗脳の仕組みを見えなくする装置だった。
 それでも、洗脳されてる人は、自分が洗脳されてることも認めたくないし、自分が悪影響を受けている面も気づかないし、原理主義的な考えによって自分が動いていることにも鈍感だ。
 うすうす「やばい」と思っていても、そこから抜け出すのに勇気を必要としていること自体が既に悪影響による洗脳の結果だと理解できないし、認めたくないのだ。



●心中列車に乗り込むほど、きみの命は安いのかい?

 町山智浩さんのモハメド・アリの映画に関する解説を聞いて、黒人解放運動の前では黒人自身が自分自身を「白人より劣っている」と認知していたと知った。
 だから、そんな黒人ボクサーを相手に、モハメド・アリは「アンクル・トム野郎」と言いながら殴りつけていたんだそうだ。

 モハメド・アリは、たった一人で黒人差別する社会に立ち向かっていたのだ。
 自分自身を誰かと比べて劣っていると認知し、自分の生活の安心や命まで自分以外の誰かに預けてしまう当時の黒人の隷属ぶりは、そのまま現代日本の国民にあてはまるだろう。
 そこで、24歳の若さで自殺した電通社員・高橋まつりさんの死から学ぶ必要がある。

 彼女が自分の命と引き換えに僕らに教えてくれたのは、上の世代による洗脳によって生産性の上がらない根性主義で働かされていれば、自分も含めて誰も幸せにできないってことだ。
 このことは、電通の終わり、旧来のビジネスモデルの終わり、高度経済成長のワーキングスタイルの終わり、隷属する文化の終わりを示唆している。

 満員電車に乗り込んで、「みんなと同じ」安心を手にしたつもりが、実はその先に橋がなく、心中まっしぐらの列車だったなんてこともある。
 資本主義社会では、「みんなと同じ」になれば、1人あたりの価値は最小化されるのだから、命が安くなるのと同じだ。
 「みんなと同じ」ところに幻想の安心や夢を見させてきたのは誰か?
 もう、わかっているはずだ。

 日本人は、高度経済成長という「成金体質」から覚める必要がある。
 会社は生き物だから潰れることもあるし、ビジネスに失敗はつきものだし、人生は右上がりだけでは終わらない。
 もう、バブルも高度経済成長も見込めない僕ら日本人に今必要なのは、根拠のない「右上がりの成長」でなく、アップダウンのある状況でも生き抜いていける持続可能な仕組みを作り出すことだ。

 それがわからず、右肩上がりの成長だけを盲信し続ければ、目覚めを先送りするだけだ。
 だからこそ、ここで立ち止まって考えてみてほしい。
 良いことずくめでリスクのない社会なんて存在しないんだ、と。

 東大という社会に入れば、卒業後は「東大卒」が一生つきまとう。
 勤務先では、「東大卒なのにこんなこともできないの?」という視線に延々とさらされる。
 仕事内容だって、東大卒を期待されてハードルを最大に上げられてしまう。
 日本一税金が投入されている東大だからこそ、国民からの期待が最大になるのは当然だ。
 「日本一の大学」に入った代償は、計り知れないほど大きい。

 しかも、高収入が約束される職場に入ったら、その収入の高さに見合うだけの重労働を強いられるし、「頭、良いんだろ? 生産性向上の仕組みなんて自分で考えろ」と自己責任を当然のように押しつけられる。
 それで何とかがんばってみれば、高収入に見合う暮らしが手に入るのだから、辞められない。

 年収1000万円の暮らしを続けてきた人が、再就職で年収500万円の暮らしに変えられるか?
 変えられない。
 だから、どんなに狂ってしまうような労働環境でも、辞められないのだ。

 どんなに過労死や自殺をしかねない労働環境でも、高所得への依存症になれば、自力ではそこから降りられなくなる。
 高すぎる収入は、シャブと同じなのだ。

 親や教師からかけられたはしごを上ったら、大人になった時にはしごは外され、自分では降りられない高さまで来てしまった。
 転職による減収を考えれば、どんなにつらい職場でも、思考停止に逃げて続けるしかない。

 いざ、勇気を振り絞って退社できても、再就職で訪れる会社の方は「なんで高い年収を捨ててウチに来たのか?」と勘ぐるはずだ。
 そこで初めて、自分の居場所がこの社会に無いことに気づいても、周囲の人たちは同情なんかしてくれない。
 端的に「負け組」扱いのまなざしを向けるだけだ。

 そこで心身の病気をきっかけに退社を余儀なくされ、せっかくレールを降りて自由に自分の意志で人生を歩ける自由を手にしても、それまで自分の人生を自分で決めてこれず、周囲のレールに合わせてきただけの人は、自分の頭で考えられない自分自身の愚かさを責めるばかり。

 しかし、そうなる前に、自分自身や自分を取り巻く環境を空の上から俯瞰する視点を獲得し、自分の頭で検証し、自分のとるべき選択肢に気づけるのが、本物の「知」ってもんじゃないのかな?


 まつりさんは「一流企業に就職し、お母さんを楽にしてあげたい」と、東大に現役合格するほどの親孝行だったという。

 家族にも友人にも先生にも「良い子」として認められ、周囲から拍手喝采で東大へ進学し、祝福されながら電通へ導かれた子が、自分の意志で周囲の期待を裏切り、自発的に辞めるという選択ができただろうか?

 「良い子」は、自分を守るための尊厳と生きる力を奪われている。

 親孝行なんて、しなくていい。
 東大なんか目指さなくていい。
 自分の心の声を聞こう。
 その命は、何のためにあるのかを。

 電通自殺を他人事にできない人は少なくないはずだ。
 親や教師に「良い大学を」と勧められて高い偏差値の大学へ入り、「良い企業へ」と勧められてその通りの会社に入ったら過労死。
 かといって、休職・退職をすれば、「いつまでニートやってるの」と責め立てられる。
 「いいかげん私のペースで私の人生を作らせてよ」と怒りにふるえてる若者は、今日では少なくない。
 だから、仲間は、いる。
【関連ブログ記事】
 差別と洗脳から、誇りを守れ ~アリの死から学ぶ
 大手の広告代理店に入りたがる、恥知らずな若者たち
 123 埼玉で講演『会社に殺されず、生き残るために』


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■ネコにポーズをつけない写真集『猫とビートルズ』

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 2016年12月7日から、『猫とビートルズ』(金曜日・刊/1296円)という本が全国の書店に並びます。
 Amazonでは、既に買えます。

 この本は、雨樹一期さんという写真家が撮影していた猫写真集に、僕(今一生)がビートルズの歌詞をわかりやすく分析したコラムをつけたものです。

 べつに、猫写真ブームに乗っかろうとしたわけではありません。

 むしろ、猫写真ブームに対する違和感を覚えていたところ、「雨樹さんの写真とコラボしませんか?」という話をフリー編集者の方から持ち込まれたので、やってみようと思ったのです。

 確かに、「ネコノミクス」と呼ばれるぐらい、猫に関するグッズは売れるようで、すでにさまざまな商品が出回っていますが、売れている猫写真には、どこか「いやらしさ」を覚えるんですね。

 はっきり言ってしまえば、「こういうポーズを人間はカワイイと思うんだろ?」という作り手の意図が見え見えで、儲けたい人間の都合によって不自然なポーズをつけられている猫ばっかり。
 それは猫写真集だけでなく、大手の広告代理店が作るTVCMにも見られます。
 猫で大儲けしたい人間の浅ましさが、透けて見えるんです。

 動物福祉の視点で言えば、「これって虐待では?」と思える無理そうなポーズもあれば、フラッシュを当てて猫の目の網膜を刺激してしまったと思われる写真もあり、人間のためにわざわざ可愛らしさを演出されていくようすは、男のために可愛い仕草を強いられる女性たちのようです。

 なので、本を作るために撮り下ろすのではなく、猫を飼っている雨樹さんが日常的に撮っていた写真のストックの中から選ぶのなら、猫にとってオーガニックな写真集が作れると思って話に乗ったんですね。

 では、なぜビートルズなのか?
 これは本書の「はじめに」に書いてあるので、詳細は読んでみてください。
 僕にコラボの話が振られ、ビートルズについて書いた経緯は、以下のとおりです。


●社会の仕組みのまずさを考えさせるビートルズの歌

 昨年(2015年)、僕は胆石の全摘手術で仕事を休むことになり、仕事とは関係なくビートルズの歌詞を100曲分、自分で訳してネットで発表していたんですね。
 彼らが歌っていたのは男女のラブソングだけでなく、増税・革命・ひきこもり・老後の孤独・シングルマザーの貧困・家出・ジェンダーフリー・平和など多岐にわたります。

 全部、2016年の現在にあるものじゃないですか!
 ビートルズがそれだけ社会性の高い歌を歌っていたなんて、知ってるようで、知らなかったのでは?
 50年以上前の楽曲なのに、ビートルズはむしろ50年以上も未来の現代人に語りかけるようなテーマを歌っていたんですよ。

 だから、50年以上も世界中の人々に愛されてきたわけですが、従来の日本語訳はわかりにくかったり、誤訳だったりしたので、改めて訳しただけでなく、日本語で歌える訳詞も作ったのです。
 もっとも、ビートルズの著作権管理は非常にうるさいので、訳詞をそのまま載せることができないため、12曲分の歌詞の内容をその中身に沿って解説するコラムにしました。

 労働者階級出身で低学歴の4人の若者だったビートルズは、ロックンロールを武器に、貧しいイギリスの最も貧しい港町リバプールからヨーロッパやアメリカ、アジアなど世界中に出稼ぎし、メシが食えるようになっただけでなく、世界中の老若男女にこの社会がどんな社会かを考えさせる歌を聞かせ、世界を変えようとしていたのです。

 そして、彼らの歌は世界中の人々に支持され、すべてのミュージシャンの中で一番たくさんレコードが売れた記録を今なお維持し続けています。
 金も学歴も経験も何もなかった若者たちは、本当に世界を変えたのです。


 しかし、猫は、いつの時代も人間の作る社会の中で生存権を脅かされています。
 近代国家では、野良が許されず、家の外で繁殖し、保護されては殺処分されています。

 だから、ただ猫が可愛いから買うのではなく、現代の人間が生きる社会を考えながら、その社会に猫だって生きていることも考えてほしかったんですね。
 誰でも知っているビートルズの歌詞を改めて深く読むことは、ただ人間のためではなく、人間の作る社会の仕組み次第で殺されたり、育てられたりする猫を思うことになるんです。

 社会の仕組みが思うようにならないまま、その仕組みに隷属してしまっている人は、自分が支配できる弱者を自由に動かしたいのかもしれません。
 しかし、それでは、猫も、女性も、たまったもんじゃないはず。

 女性はまだ「No!」という声を上げられるかもしれない。
 でも、猫が本気で嫌がってる「ニャァ!」という声は、多くの人間には届きません。

 僕は思うのです。
 猫と女性の本来の魅力は、なつかないことだ、と。
 他の人の言動で安々と動かないからこそ、そこに自由と尊厳があるのではないでしょうか?

 この本のキャッチコピーは、「権力の犬にはならニャイ!」です。
 力で左右される関係からは、おさらばしましょう。
 そのままの自分で生きていられる姿こそ、美しいのですから。

 そんなオーガニックな猫写真『猫とビートルズ』
 売れないかもしれないけど、買ってください。
 クリスマスや誕生日などのプレゼントとしても、喜んでもらえるでしょう。
 ポーズをつけなくても、十分、猫は可愛いし、美しいから。

 この本によって、一人でも多くの人が本来の猫の魅力に気づき、今後は猫に迷惑をかけない写真集が増えるといいな。
 だから、この記事も拡散してください。
 一緒に世界を変えよう!

【関連ブログ】
 動物殺処分ゼロを「猫付きシェアハウス」で(東京編)
 動物を虐待する社会は、市民の力で変えられる

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■『よのなかを変える技術』の朗読が、ネットで聞ける!

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 僕の書いた本『よのなかを変える技術 14歳からのソーシャルデザイン入門』(河出書房新社)の文章を、福祉職のレイラさんが朗読した音声が、ツイキャスで公開された。

 この本は点字化されていないため、朗読をネット上で聞ける音声ログは、目の見えない人にもこの本を読む楽しさを提供できる。
 もちろん、目の見える人にとっても、他の作業をしながら「ながら聞き」できる音声ログは便利。
 ストレスやうつ病などで活字を読めない人にとっても、ありがたいはずだ。

 こういう試みは、大歓迎!
 まず、その音声ログのリンクを紹介しよう。

★序章     本書の10~19ページ
★第1章(前半) 本書の22~35ページ
★第1章(後半) 本書の35~49ページ
★第2章(前半) 本書の52~67ページ
★第2章(後半) 本書の67~80ページ
(★をクリック)

 聞いてみると、レイラさんのやさしい声に思わずいやされる。
 本書は第6章まであるが、最後までまるごと朗読されれば、後日リンクを加えたい。
レイラさんのツイキャスの静止画の画面

 なお、『よのなかを変える技術 14歳からのソーシャルデザイン入門』の目次は、以下の通り。

序章 ~よのなかを変える「ソーシャルデザイン」って何?

1章 きみのまわりを見わたしてみよう
まずは身のまわりから見てみよう
きみを困らせる「よのなかの仕組み」は何?
必ず誰かが困ってる
困ってる人との付き合いを深めてみる
【コラム】シェアサイクルの仕事でホームレスをなくすホームドア

2章 よのなかはどうなっているか
困ってる人のまわりはどうなっているか
「仕組み」にある課題を発見しよう
当事者固有の価値を発見しよう 〜「仕組み」が変わりはじめる時
7つのSTEP 〜新しい「よのなかの仕組み」へ
【コラム】地元を元気にするために起業する高校生たち

3章 仲間をみつけよう
「よのなかの仕組み」を文章にし、人に伝えよう
同じ志をもつ個人・団体を探そう 〜共感者はいろんな場所にいる
きみの話を多くの人にわかりやすく伝えるために
人を集める 〜キックオフ・ミーティングを開催する
【コラム】カフェを営み、県内の高校生をつなげる10

4章 「よのなか」を変えるには
困ってる当事者が満足できる活動を作ろう
問題解決までのロードマップを作ろう
リーダーとして「マネジメント」を学ぼう
スタッフそれぞれの強みを発見し、役割を分担しよう
出来ない理由をあげつらうより、出来る方法を探し出そう
正しさ以上にわくわくできる活動で多くの人を巻き込もう
【コラム】小学生でもゲームで化学の楽しさを伝えられる

5章 新しい「よのなか」を続けるために
活動の成果を定期的に外へ広く伝えよう
解決できる仕組みは他のまちへ広げ、後輩へ定着させよう
続けるための仕組みを作り出そう
活動の初期から経費を賄える収入を作ろう
イベントを開催し、活動への共感者を増やそう
注目を集めよう 〜新聞やテレビから取材される技術
【コラム】●9歳の小学生でも、多額の寄付を集められる

6章 新しい「よのなか」を作った人たち
動き出した全国の10代たち
若者にしかできないアクション
世界中で増え続ける社会起業家 ~ソーシャルビジネスって?

関連ブックリスト/購読者向けサービス特典
あとがき 〜困ってる当事者とのつきあいから社会を変えよう
著者紹介



●自分の地元で講演会を開催したい方はメールを!

 『よのなかを変える技術 14歳からのソーシャルデザイン入門』は、社会変革を仕事にするところまでを視野に入れて書いた本だ。
 「14歳からの~」とサブタイトルにあるが、中学を受験する小学生の国語のテスト問題として塾で採用されたほど、わかりやすい文章にしてある。

 なので、「社会の役に立つ仕事がしたい」と考えてる人や、「自分がやりたい仕事を無理なく作り出す方法を知りたい」という人も含め、大人にも十分、面白く読めるはずだ。

 12月3日(2016年)、狭山市で『会社に殺されず、生き残るには』という講演を行った。
 これは、ただ雇われて勤務先の命じるままに働く奴隷のような生き方から抜け出したい人向けに、障害・学歴・職歴・病歴のあるなしに関係なく、自分のしたい仕事を無理なく作り出せるようになるための手法と事例について話したものだ。

 その講演でも、『よのなかを変える技術 14歳からのソーシャルデザイン入門』から引用した事例を話したが、社会をもっと生きやすい場所へ変えるための仕事とはどういうもので、どういう手順でそんな仕事が作れるのかについて、実際にある仕事の事例を豊富に語ったのだ。


 この講演会自体、主催した西島さんと講演者の僕で入場料(参加費)からの収益を分け合いながら作った「小商い」の1つだ。
 西島さんは一人で広報チラシを初めて配り、その学びをブログ記事で公開した。

 講演会を企画・開催するのは、西島さんにとって初めての体験だったが、彼は講演の終了後、その模様をやはりブログ記事で公開し、こう書いている。
「確かな価値を実感できる小商いにこそ、
 日本の未来をつくる力がある、とぼくは感じました」


 Facebookでは、こうも書かれていた。
「実際に狭山でわくわくする講演会という『ぼくがやらなければ存在しなかった仕事』をつくらせていただいた身として、仕事をつくることはこんなにも楽しく、わくわくすることなんだ、とお伝えしたいと思います」

 他にも、受講されたアンリ英司さんも、ブログでこんなことを書かれていました。
このダークサイド活かせそう!
 開示できるなら活かしていこう!
 自分の蓄積を活かしていきます。」

 この講演会は、電通で入社9ヶ月で新入社員が自殺した報道を受けて、急遽企画したので、短期間しか広報できなかったが、講演の内容は濃密で、2時間があっという間だった。
 受講した方々とは、講演の終了後に新宿のカフェでオフ会を行い、講演した僕への質問を気軽に受け付けた。

 Facebookの僕のページを観てもらえれば、受講者の方々が口々に「ワクワクできた」など興奮気味に感想を語ってくれる方もいて、埼玉県狭山市まで足を運んだだけの価値と高い満足を表明してくれたのは、本当にありがたい。
 今後も、「うちの町で講演して!」と依頼されれば、全国どこへでも飛んでいくつもりだ。
(※個人向けには、「雇われない働き方の相談」のサイトで相談を受け付けている)

 どうすれば講演会を開催できるのかがわからないなら、僕(今一生)にメール(←クリック)さえ送ってくれれば、一緒にSkype(id:con-isshow)で打ち合わせしながらいくらでも教えるし、相談にも気軽に乗っている。
 学生でも、ニートでも、主婦の方でも、個人でも、僕を地元に招きたいと思ってくれたら、気軽にメールしてほしい。
(※Skypeを利用してないなら、LINE通話でも、電話でもOK)


【関連ブログ記事】
 88日、京都で「食えるミュージシャンになる」講義
 あなたの街で、SKYPE講演を


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■今一生のYoutubeに、チャンネル登録を。

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 気まぐれに始めた「今一生のツイキャス」だったが、最近では毎週金曜の夜9~10時頃から定期的に配信するようになってきた。
 ツイキャスには、ライブ履歴(動画)のログを残せる機能があり、僕もいくつか残している。

 また、動画ファイルをYoutubeにアップロードする機能もあるので、1つのテーマで掘り下げて話した動画のみ、「今一生のYoutubeチャンネル」に格納している。

 チャンネルは、再生リストを分けられるので、「ツイキャス動画」というタイトルの再生リストには、以下のようなラインナップが並んでいる(※2016年12月8日時点)。






●ソーシャルデザイン、ビートルズ和訳、本人出演の動画も…

 本業のライターとしては、ここ10年間はソーシャルビジネス/ソーシャルデザインを取材してきたので、取材対象の社会起業家やソーシャルデザイナーを招いて行ったイベントの模様や、早稲田大学で行った講義などの動画も、「今一生のYoutubeチャンネル」公開している。
 そのリストは、以下の通り。

 おもろいヤツが、よのなか変える(東京編)

 おもろいヤツが、よのなか変える(大阪編)
 ソーシャルデザイン白熱教室@早稲田大学
 社会起業家・養成ゼミ TOKYO
 社会起業家のソーシャルデザイン(厳選リスト)

 他にも、2015年に胆嚢の全摘手術で入退院をしていた頃、1年間でビートルズの歌を100曲分も和訳して自ら歌ってみた動画も公開している。

 バックの演奏をつける環境がなかったので、既存の音源をカラオケに歌ったものだが、そもそも手術で声が出なかったので、音程の品質より譜割りのリズムに訳詞がちゃんと乗っていることだけを伝えたくて作った。
(※バック音源の著作権の問題で、一部の楽曲の動画が見られない。いつか自前の演奏で撮り直したい)

 ビートルズ来日50周年だったので、彼らが当日、何について歌っていたのかを改めて確かめる趣味だったが、「ビートルズ 100 Songs 和訳&歌唱プロジェクト」としてリスト化してネット上に公開してみた。

 すると、これを面白がってくれたフリー編集者の伊藤淳子さんが、大阪のトイカメラマン雨樹一期さんの撮影していた猫写真とのコラボ本を企画し、『猫とビートルズ』(金曜日・刊)を2016年12月に発売することになった。

 もっとも、訳詞でも著作権は原詩にあるため、訳詞をそのまま収録することは叶わず、12曲分の歌の中身をわかりやすく解説するコラムを書き下ろした。

 ビートルズは若い男女のラブソングを歌うロック・アイドルから出発したが、その歌詞は少しずつ社会性の高いものに成長していき、50年後の現代の社会にも通じるメッセージを込めるまでになっていた。
 高齢者の孤独、シングルマザーの貧困、増税、反戦など、ビートルズが歌う題材として選んだテーマは、ビートルズ解散後にマイケル・ジャクソンなど多くのロック・ミュージシャンが作る楽曲にも大きな影響を与えた。

 ロックはブルースをルーツに持つが、生きづらい社会の仕組みの中でなんとか生き残ろうとする労働者階級の気持ちをふまえて歌う限り、古びることはないだろう。
 そんなロックの歴史を塗り替えたビートルズが何を歌っていたのか、ぜひ再生リスト「The Beatles in Japanese」を聞いてみてほしい。


 他にも、僕が出演したイベントや講演、トークライブ、ツイキャスなどの動画も、再生リスト「今一生が出演している動画」でアップしている。

 ツイキャスの生配信を通知してほしい方は、ツイキャス画面の左下にある僕の名前のそばにある「通知に追加する」をポチッと押しておいてください。
 また、僕のYoutubeチャンネルに新作動画の追加があった時に教えてほしい方は、チャンネル登録をしておいてください(右側にある赤いバナーで白地の文字のバナーをクリック)。

 では、金曜の夜にツイキャスでお会いしましょう。

【関連ブログ記事】
 日本人が韓国・中国でハグを求めたら◯◯な結果に
 中学生が作った近未来SF短編動画を見てみよう!
 長期化するひきこもり当事者の「その後の人生」

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■年金機構の家賃は1128円、親のいない子は3万円 

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 2015年10月24日付の日刊ゲンダイに、以下の記事が掲載された。

日本年金機構が全国に保有する宿舎207棟のうち、入居者ゼロは2014年度末で13棟。
このうち、東京・東久留米市の独身寮の月額家賃は「1128円」だった。
さらに、職員が住んでいる東京・昭島市の独身寮も家賃は「1984円」
世帯向け宿舎(60平方メートル前後)の家賃も、ほとんどが数千円台から1万円台。
機構は宿舎に住んでいない職員4000人に対して年間13億円もの家賃補助を支払っている。
しかし、年金機構法には規定がなく、法改正が必要だ。
民主党の部会で法改正について問われた厚労省は、「鋭意検討中です」。

 年金機構は、堂々と公式サイトに「非公務員型の公法人(特殊法人)」と書いているが、年金機構の職員は、ほとんどが年金機構の前の組織である社会保険庁からの移行組、つまり「元公務員」だ。
 その元公務員に「家賃1128円」という好条件を与えることが、「非公務員型」の組織にふさわしいだろうか?

 もちろん、「NO!」だ。
 彼らは、彼ら自身が特殊法人でしか通じない常識(ローカルルール)にのっとって、「年金や税金は俺たちが美味しく使わせてもらうぜ」と言わんばかりに、堂々とムダづかいを続けている。

 一方、虐待などの事情で親元で暮らせない15歳~20歳の子どもは、民間の養護施設「自立援助ホーム」で集団生活をし、子どもたち自身が家賃3万円程度を負担するため、低賃金のアルバイトをしながら毎日必死に高校へ通っている。

 定職のある元公務員の家賃が1128円で、しかもその部屋を使わないままにしているなら、なぜ親元で暮らせない子が住めるようにしないのか?

 こんな愚かな仕組みを税金から支給される仕事で作っておきながら、厚労省の官僚はいっこうに動かない。
 税金をジャブジャブ使う現実を指摘されて困るのは、同じ公務員の官僚も同じだからだろう。

 日本年金機構の理事長・水島藤一郎(=写真。同機構の公式サイトより)は、2016年1月4日のご挨拶で、以下のように伝えている。

年金制度の運営組織として高い倫理観と使命感を持ち
国民の年金を守る為に職員全員が一体となって努力を続ける組織として、
この日本年金機構を再生することに全力を尽くして参ります

 このメッセージは、不正アクセスによる情報漏洩で、125万人というとんでもない数の個人情報を流出させてしまった事件を受けて書かれたものだ。
 しかし、「高い倫理観と使命感」は組織としての文化によってしか育まれない。

 では、公務員・官僚は、なぜ倫理観と使命感を欠いた仕事をし、国民を悩ますばかりの愚かな仕組みを作ってしまうのか?


●資本主義は、「資本主義の精神」なしには機能しない

 そこで、僕がイベントや対談などでお世話になってきた社会学者・宮台真司さんのお師匠さんである小室直樹先生の生前の講演の動画(Youtube)から、官僚がおかしくなってしまった歴史的な経緯をわかりやすく紹介しておきたい(以下、講演の一部を書き起こし)。


 日本は明治時代、一応は資本主義に向けて発進しました。
 しかし、資本主義になっても、地主階級はほぼそのままだったのです。
 征夷大将軍とか、武士や大名は全部なくしたのに。
 しかも、地代は実物の米で小作人に払わせ、50%というべらぼうに高いものでした。
 そこで、封建主義の最も基本的な部分が、日本の資本主義にすべりこみました。
 人間関係まで資本主義にすべりこんだのです。
 50%は上限とし、飢饉のような時は負けてくれたので、人間的にも地主が偉くて小作人は「下」という人間観が社会の全体に広がっていきました。

 もう一つ、日本のビジネスリーダー、主な資本家や経営者のほとんどは下級武士でした。
 三井財閥を近代財閥に編集し直した人々は、下級武士です。
 日本の明治維新は、下級武士が主体になってやりました。
 下級武士は、明治の官僚組織の中に大量に潜り込みました。
 明治維新によって武家階級はなくなりましたが、武家階級の倫理であるところの武士道が下級武士を媒体として官僚組織に潜り込んだのです。
 武士道の本質は「役人が日本を支配する」というものですから、あたかも武士が町人や百姓を支配したように、そのような考えが残ってしまいました。

 資本主義国では役人は公僕ですが、役人が私人で、それが経済のトップ、ビジネスリーダーを支配し、全日本を支配するというエトス(行動様式・倫理)が残りました。
 これがずっと続いていたわけですから、日本は本質的に封建制度のシッポを引っ張りながら資本主義になったといえます。
 そのような状態が、戦争前まで続きました。
 昭和12,13,14,15年あたりから大戦争に直面せざるを得なくなりました。
 その頃から大戦争に突入することが明らかになり、官僚は何が何でも大戦争ができる経済システムを作らなければならないと考え、アメリカと戦うためにはそれまでほとんどなかった巨大な飛行機産業が必要になり、急に航空産業を作らなければなりませんでした。

 しかし、当時の人々は「飛行機は落ちるもんだ」と考えられていましたから、航空機会社の株を買う人はいません。
 そこで、政府は銀行に、「飛行機会社が来たらいくらでも金を貸せ。責任は大蔵省(現・財務省)がとってやる」と命令しました。
 それまでは資本主義社会ですから、株式や社債などを売って金を集める直接金融が主流でしたが、銀行による間接金融が主流になり、それが現在の日本の金融政策の原型を作ったのです。

 飛行機産業に対する政策は、一つの例です。
 戦争を遂行するために役人が主体となって、金融産業を媒介して隅から隅まで役人が支配するのは、一種の社会主義経済です。
 このいような社会主義経済は、戦争を媒介してできました。
 戦後、アメリカ軍が進駐すると、軍部・財閥を解体し、農地解放をすることによって地主階級をなくしました。
 それらが戦争へ駆り立てたと思ったからです。
 しかし、アメリカには官僚の専門家がいなかったと見えて、官僚による金融システムを通じての経済支配に手を触れなかったのです。
 「日本は生産能力がなくて戦争に負けた」と考えた官僚は悔しがり、ますます経済支配を強め、「アメリカに追いつけ、追い越せ」と必死に努力し、朝鮮戦争による特需によって日本は経済大国に向かって歩き出しました。

 その背景には、米ソの対立があります。
 両国は第3次世界大戦が起こるだろうと軍事・経済面で競争関係にあり、アメリカは日本を同盟国にし、日本の経済的成長を助けました。
 1965年の日米安全保障条約によって「軍事はアメリカがやるから、日本は経済成長に専念すべし」としたため、官僚は喜び、すべての力を経済成長に集中せよと成長に有利な産業に資金を投入し、ソ連の5カ年計画よりさらに効率的に社会主義に育てました。

 日本はみるみるアメリカに追いつき、いくつかの分野で追いつきました。
 バブルの弾ける直前の1989年から1991年まで、経済規模はアメリカの半分くらいでしたが、設備投資はアメリカより多かったんです。
 そこで、日本が社会主義であることの欠点が露骨に出てきました。
 それはソ連と同じで、金融システムに命令している日本の官僚の欠点です。
 その欠点とは、依法官僚制と家産官僚性制の矛盾です。

 依法官僚制は法律に基づいて官僚が支配するもので、無機的・合理的な支配ですから、官僚は法律のおばけみたいなもので、法律の解釈どおりに支配する。
 近代的な官僚制は、そういうものでなければならない。

 ところが、家産官僚制は、国家は君主の私有財産であるという考え方。
 官僚は、君主の命令によって国家を君主の私有財産として管理する。
 この典型が、中国ですね。
 中国の官僚制がものすごく進歩していたのは、ペーパーテストで高級官僚を募集する科挙の制度が隋や唐の時代に既にできていたからです。
 ヨーロッパでははるかに遅れていて、高級官僚になるのはたいてい貴族ですね。
 役職を金で買うことがフランス革命のちょっと前までふつうだったぐらいで、ペーパーテストの導入による採用は20世紀初めまでそんな具合でした。

 日本では、奈良時代に科挙が入ってきたものの、まもなく辞めて、復活しておりません。
 明治時代になって教育制度を作り、下級武士が大挙して侵入し、教育機関をもって階級を作りました。
 一高東大法学部高級官僚というレールがでたのです。

 その制度の問題点は、武士のノブレス・オブリージュ(有者の責任)が生きてるときには立派に通用しましたが、そういう精神は時代が経つと急激に消えていきます。
 決定的だったのは、戦後の教育改革です。

 戦前ならお金が無いですから、中学校に入るのさえ難しい。
 そこで給仕をやったり、丁稚をやったり、苦労をして難関の一高に合格したら大変な美談です。
 だから、勉強させてやれば一高に受かりそうな生徒には、地主も田舎の名望家もみんな(経済的に)応援したのです。

 そんな時代で東大に入った人たちは、みんなからのものすごい期待を受けて責任感を覚え、「日本人のためにやってやろう」という気迫に満ちておりました。
 だから、国民も「お役人様に頼っていればいい」と思っていても、間違いがなかったわけです。

 ところが、戦後の受験戦争の時代になると、ペーパーテストに受かりさえすれば、誰でも東大法学部に入れるし、大蔵省のキャリア試験でも誰でも受けられます。
 そこには、「人々の希望を一身に担う」という意識もなければ、武士道ノブレス・オブリージュもありませんから、ものすごい特権だけが残ったのです。

 「俺は頭が良くて、試験が上手で合格したんだから、俺自身が偉いのであって、国のためなんてどうでもいいや」となります。
 そうなると、日本の官僚制は、表面(見かけ)は依法官僚制でも、本質的には家産官僚制になってしまったのです。
 家産官僚制では、国を自分の私的財産だと思っているんですから、恐ろしいですなぁ。

 中国においては、最も清廉潔白な人でも、地方長官を3年やれば、親子3代遊んで暮らせたといいます。
 ものすごいワイロをとったかと思えば、とりません。
 清廉潔白なんだ。
 どうも変だと思って調べてみると、家産官僚制では正当な報酬とワイロとの区別がないんです。
 国家が私有財産だったら、当然そういうことになるでしょう。

 日本の官僚も、国のものと自分のものとの区別がない。
 だから、大蔵官僚なんかが汚職で逮捕されても、誰も悪いことをした顔をしてないでしょう?
 悪いことをした意識がないんですよ。
 日本の資本は前期的資本ですから、資本の方にも何の規範性もありません。
 どこからどこまでもが株主のもので、どこからどこまでが俺のもんだという区別がないので、お役人にワイロを使っても、悪いことをした意識が全然ない。
 家産官僚制と前期的資本が結びついて、日本の官僚の果てしなき汚職を生んでいる。
 ですから、日本の経済がぴったりと動きを止めて、政府の政策が効かなくなって、誰もうかうかと消費や投資ができないのも当然なんです。

 補足しておこう。
 小室先生は、「資本主義の精神がないと資本主義国にならず、ギャングばかり産まれてしまう。それが、ロシアが資本主義になれない理由」と指摘している。
 資本主義の精神とは、「富を目的として追求することは邪悪の極致としながらも、(天職である)職業労働の結果として富を獲得することは神の恩恵(グレイス)」と人々が当たり前のように考えること。

 資本主義の精神が生まれる以前は、利潤の追及だけで何の規範もない。
 そのため、資本主義以前を「前期的資本」という。
 現代でも、経営者の中には前期的資本のままでビジネスをする人間はいる。
 そういう連中が規範のない官僚と結託すれば、ワイロを差し出す・受け取るという関係が生まれるのは必然だ。

 それどころか、現在の日本の官僚は、自分と国の区別がつかないのだから、自分の知っている範囲の社会観しか持ち得ない。
 現代では、親の所得と子どもの学歴(偏差値)は正比例しているため、東大に行ける子は、私立の幼稚園・私立の小・中・高を経た中流資産層以上の裕福な家庭に集中している。

日経BPの記事より

 小さい頃から自分と同質の所得層の家庭の子ばかりに囲まれて育てば、貧困層や親のいない子ども、障がい者などの社会的弱者との関わりを一切もたないまま、大人になってしまう。
 その結果が、自分たちだけは家賃1128円の部屋に住めるが、親のない子は3万円を働いて払えばいいという仕組みの愚かさに罪悪感を覚えない官僚なのだ。

 この仕組みは、「偏差値が低ければ、一生低収入と貧困の不安に甘んじろ」と言い換えられる。
 さらに言うなら、「障がい者になったら俺たちと同じ給与を得られる希望なんてあきらめろ」だ。
 文科省の官僚も、自分たちと同じ給与額面を低学力の子どもに提供できるだけのチャンスを作らないし、その仕組みを制度化することにもまったく関心がない。

 そんな官僚たちの作った仕組みに、まんまとノセられてたまるかっ!
 だからこそ、僕は学校文化に毒されないで生き残った人たちの起業事例と手法について強い関心を抱くのだ。
 腐った官僚が跳梁跋扈する日本で、政治思想の右・左を議論してるヒマなんか無い。

 生き残るために、学校文化によって植え付けられた「良い子」の発想をそぎおとし、誰もがその人にとって無理なく稼げるビジネスモデルを発掘、紹介していきたい。
 そのために、『よのなかを変える技術』(河出書房新社)を書いたんだよ。

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■新聞やテレビが取材したくなる報道価値の3条件

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 より多くの人に情報を知らせたい時、テレビや新聞で紹介されるのがてっとリ早い。

 たとえば、講演会などのイベントを開催するので、たくさん人を集めたい時。
 たとえば、ベンチャーで新しい商品・サービスを売り出したい時。
 たとえば、NPOで広く市民を募って社会貢献の活動を行う時。
 たとえば、クラウド・ファンディングで多くの人に呼びかけ、資金調達を達成したい時。

 広告予算がたんまりあるなら、広告費を出せばいい。
 しかし、広告は目の玉が飛び出るほど高いし、費用対効果も曖昧だ。
 紙チラシなんて巻いても、何のコツも知らないままだと100枚に1枚しか読んでもらえない。

 では、どうする?
 テレビ番組や新聞記事で取り上げてもらえるよう、取材してもらえばいいのだ。

 ネットの時代になっても、新聞の購読者数やテレビの視聴者数はまだまだ大きい。
 テレビ局や新聞社の公式サイトに、あなたが広めたい情報が番組や記事として出る時代には、ネット上の拡散もしやすい。


 幸い、今日では主なテレビ局や新聞社は公式サイト上に連絡先を公開してある。
 編集・報道の部署が情報提供を求めていたり、お問い合わせ用のメールフォームまである。

 そこで、47都道府県にかならずある読売新聞・朝日新聞・NHKの支局とローカル新聞の問い合わせ窓口サイトのリンク集を作ってみた。
 下記にメールやFAX、電話などで連絡し、プレスリリース(※取材してほしい内容を簡潔に書いた文章)を送れる。


★多摩エリア 読売新聞 









●取材されるには、報道価値の3条件を満たせ!

 もっとも、「宣伝してください」などと書いたら、「広告部に連絡して広告費を出してください」と返事をされるのがオチだ。
 ましてや、自分の利益だけを目的にした商品のプレスリリースなら、そのFAXはゴミ箱行き。
 宣伝ではなく、あくまでもコンテンツ・バリュー(※市民に広く報道するだけの価値)がプレスリリースの中身に含まれていなければ、取材を担当する編集部の記者は関心を持たない。

 では、報道価値とは何か?
 以下の3条件を満たしたネタをわかりやすく伝えるものだ。

①社会性(公益性) より多くの市民にとって役立つか、有益になるネタ
②革新性(意外性) 犬が人を噛むのではなく、人が犬を噛むという反・常識的な驚きのネタ
③時事性 旬の話題に深く関係し、人々の関心を集められるネタ(例:5月なら子どもの日)

 この3条件の基礎については、拙著『よのなかを変える技術』(河出書房新社)に詳細に書いた。
 そもそも報道価値のない商品・サービスやイベントを何度くり返していても、そのビジネスやイベントに成長も発展もない。
 だから、無理やり大金を出して広告を出稿するしかなくなるのだ。

 逆に、多くの市民が思わず有益だと感じてもらえて、これまでの常識をひっくり返す驚きがあり、今の時代や話題にピッタリ合う商品・サービス・イベントなら、報道価値が高まり、市民の間に持ち上がった噂を聞きつけた記者が思わず「取材させてください」とやってくるというものだ。

 僕自身、テレビや新聞、雑誌、オンラインなどのメディアで取材したいネタを日々探しては書くという仕事をしているので、報道価値を満たさないプレスリリースを送られても、げんなりするばかりだ。
 中には「惜しい」と思われるプレスリリースも届くが、その場合は「もう少しこういう商品に洗練させることはできないか?」と具体的な提案をすることもある。

 しかし、たいていの場合、取材する側が何を求めているかもわからないまま、ひとりよがりな商品・サービス・イベントの情報を送っては「取材してください」と頼んでくる。
 それらはたいてい、最初から企画・開発をやり直さなければならないほどのプレスリリースなので「取材される技術 ~マスコミ0円広報術」(←クリック)という有料の相談サービスと講演を受注している。
(※この有料の相談サービスは、期間限定で試験的に実施中。予告なく終了する場合あり)

 取材される技術は、学べば一生モノなので、商品・サービス・イベント・社会貢献活動などを成長させたいなら、いつかは学ばないと、広告費を散財するばかりの状態を続けることになるだろう。

 今日の日本は、「モノが売れない」と呼ばれて久しい、マイナス経済成長時代だ。
 広告費を出して無理やり売り出そうとするより、商品・サービス・イベントの開発・企画の段階で報道価値を十分に備えたものを考える方が、広報の労力も最小化できる。

 新聞記事やテレビ番組はネット上でも同様のコンテンツが公開されることが多く、twitterやfaceboookなどのSNSで長い期間拡散できるようになるので、取材される技術を学ぶ費用対効果は大きいはずだ。
 ぜひ、広報に戦略を持ち、自分の発信したい情報をより多くの人に知ってもらうと同時に、商品・サービス・イベント・社会貢献活動などの品質も向上させていってほしいものだ。

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 『よのなかを変える技術』の朗読が、ネットで聞ける!
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■前向きの前を疑えば、誰もが「しくじり先生」になれる

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 「子どもの心を育む教師と親のために」発刊された老舗の月刊誌『児童心理』(金子書房)の1月号の特集「前向きな子」が、発売された。

 この特集で編集部から執筆依頼を受けた僕(今一生)は、大学で心理学を教えるえらい先生や教育現場にくわしい方々に混じって、「大人の示す『前』では生きにくい子どもたち」という挑発的な文章を書いた。

 大学を半年で辞めてしまった僕は、大人に一方的に語られがちな子どもの現実をふまえたうえで、今日的な「前向きな子」の意味を問う内容を書いている。

 特集記事の目次と執筆者は、以下の通り。
(Amazonで購入したい方は、コチラへ)


前向きに生きる 大野裕
前向きな心の発達 速水敏彦
ポジティブ心理学から見た前向きな心 小玉正博
ネガティブ思考がよい結果を生むとき
――防衛的悲観主義とは 外山美樹
前向きな行動を生み出す考え方 石川信一
夢や目標をもつことはどのように大切か 白井利明
大人の示す「前」では生きにくい子どもたち 今一生
すぐめげる子・あきらめる子をつくる親のかかわり 内田利広
プラス思考、ポジティブシンキングがマイナスに働くとき 若島孔文
「楽観的な子が伸びる」は本当か 田中輝美
子どもが憧れるヒーローはどう変わったか
――兜甲児からアムロ・レイ、碇シンジへ 石井久雄
●学級で育てる前向きな心
前向きな子を育てる人間関係 藤枝静暁
「失敗してもいい」「間違ってもいい」を共有できる『学級づくり』
――心の教育の視点から 永井裕
勉強が苦手な子どもでも積極的に取り組める授業の工夫 神谷和宏
●前向きになれない子へのかかわり
将来の目標を持てない子にどうかかわるか 関﨑純也
励まし、勇気づけを有効に使う 森重裕二
子どもを支え、応援する担任の在り方
――「カウンセリング・マインド」再考 海野千細
●こんな子に親はどうかかわる――自分で乗り越えるために
友だち関係に傷つき、思い悩んでいる子に 菅原裕子
勉強しても成績が伸びなくて落ち込んでいる子に 佐藤宏平

●苦しみ続けた者にしか持ち得ない「当事者固有の価値」

 「前向き」という言葉は、実はとても危うい言葉だ。
 なぜなら、「前」を自分以外の誰かが決めて、しかもそれが同調圧力によって自分に強いられることがあるからだ。

 「前」を親や教師、勤務先の上司などが勝手に決めるなら、「前向き」はいつも元気で、健康で、落ち込んでもすぐ立ち直れるような強さを備えているような属性・能力ということになるだろう。
 でも、僕はそんな「前」など信じない。
 それは、すべてを持っている人の特権的な立場だけを正当化するものだからだ。

 よのなかには、うまれつき元気でないまま生きていかざるを得ない病気や属性の人もいるし、人生の途中から治らない病気になる人もいれば、すぐにはとても立ち直れないショックな事件や事故、災害、人間関係に見舞われる人もいる。
 そういう人たちこそ、長い間ずっと苦しみに耐えてきた中で、その人にしか発見できなかった生存戦略を蓄積している。

 僕は15年以上の自殺取材の中で、その生存戦略の価値の大きさを自殺未遂の常習者たちや依存症の病人たちから学ばせてもらった。
 彼らは、心身の病状に悩み続けたり、愛する人の死に耐え続けたりしながら、今日までなんとか生をまっとうしている。
 その履歴を知れば、十分、健康な人たちに語れる大きな価値を蓄えているといっていい。

 だから、「しくじり先生」のような番組を見るたびに、「前向き」ではないと一方的に後ろ指をさされがちな精神病者や自殺未遂常習者、生活保護受給者などが、「しくじり先生」として人生を語る講演会を、福祉職の人たちが開催し、入場料の収益で苦しんできた当事者の収入源の一つを作り出す試みをしてほしいと思うのだ。

 「しくじり先生」の公式サイトには、こう書かれている。

当学園は、過去に大きな失敗を体験した“しくじり先生”たちが「自分のような人間を増やすまい!」という熱意を持ち、生徒たちにしくじった経験を教えている学園です。

 長い間ずっと苦しんできた人は、その過程で何かを間違えたのかもしれないが、それは必ずしも世間が勝手に推測するものとは限らない。

 親の言う「良い子」になろうとしてきたことが過剰適応を招き、恋人や上司の前でも「良い子」になろうとしたことが過労でダウン→うつ病→退社→ひきこもり→自殺未遂という展開になってしまった人もいる。

 「良い子」になってくれという親や教師からの期待を、世間が何も疑わずに正当化すればするほど「良い子にならなきゃ…」と追い詰められてしまう人は少なからずいる。
 彼らにとって「しくじり」とは、いつまでも「良い子」であり続けることだ。

 「良い子」を降りたからといって、犯罪や違法行為をするわけでもなく、病状がすぐに回復するわけでもない。
 それでも、今日まで生き残るためにその人なりに困難を軽減するために工夫してきた生存戦略が、自分が思う以上に豊かに蓄積してきた事実に気づける。

 その生存戦略は、自分史を歴史年表のように書いたり、人に話すことで、具体化できる。
 カウンセラーやソーシャルワーカーなどが当事者の話をじっくり聞き出せば、具体化は早い。
 生存戦略が具体化できれば、それを「しくじり先生」のようにイラストや文章で教科書として見せられる形をとれば、番組と同じ教室を生み出せる。

 福祉の仕事は、とかく制度のとおりに仕事をすれば満足してしまいがちだ。
 でも、生きづらさを持て余してこじらせてしまう人たちを救うには、彼らが苦しみと同時に蓄積してきた生存戦略に価値を発見することではないか?

 彼ら苦しみの当事者にしか得られなかった価値(=当事者固有の価値)を、しくじり先生のような講演会を開催し、教わる側からお金や感謝の言葉をもらうことが、当事者の苦しみの対価として正当な報酬を約束する福祉の仕事のように思うのだ。
(※当事者固有の価値を活かしたビジネスは、『よのなかを変える技術』に豊富に紹介した)

 「当事者固有の価値」はこれまで学術研究の名の下で当事者から搾取され、研究者たちに飯を食わせてきたが、当事者への還元が無かった。
 誰もその構図に疑問を持たなかった。
 それは、日本の官僚が国のものと自分のものとの区別がつかない事情と似てるかもね。

 その結果、当事者たちが集まるイベントでも、500円や1000円の入場料を設定してしまうし、それが不当な安売りであることを当事者自身が気づかないままだ。
 「どうせ俺たちの言葉や表現なんてそれぐらいしか払ってもらえない」という自己評価の低さを、福祉職は誰よりも真摯に受け止める必要があるだろう。

 だからこそ、当事者固有の勝ちに対する正当な対価を作り出すのが、現場の福祉職に求められているように思う。

 公民館を借りて入場料収益を作る以外にも、医療・看護・介護・福祉の高校・専門学校・短大・大学などに「素人版・しくじり先生」として授業を売り出す(=学校からお金をもらう)手もある。
 もちろん、大企業のCSR(社会貢献の部署)を通じて、社員向けセミナーとして売る手もある。
 あるいは、講演会ではなく、自叙伝の朗読会かもしれないし、ラップのような音楽として売り出せるかもしれないし、映画や本かもしれない。

 このようなマネタイズ(収益化)の方法を学ぶことも、今日の福祉職が生きづらい当事者の生活の質を向上させるのに必要な経験ではないか?

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■こども食堂の活動資金に、不要な学術書の寄付を!

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 こどもの貧困という現実が深刻化し、こども食堂が全国的に増えている
 こども食堂は、地域のこどもにバランスのよい食事を無料もしくは格安で提供する活動だ。
(知らない方は、このオンライン記事を読んでみてほしい)

 こども食堂では、食材を寄付されたり、調理・配膳の場所を無償貸与したり、運営は地域の市民が自発的にボランティアとして関わっている。

 ボランティアには、食材を調達する人、料理する人、こども食堂へこどもを呼び込むために宣伝する人、ボランティア人材を集める人など、さまざまな人材が必要だ。

 もっとも、1回だけイベントとしてこども食堂をやってみて、その反響を確かめてから月1回→週1回→週◯日という具合に開催頻度を増やしていくことで、無理なく定例化していく団体もある。

 もちろん、最初からやる気満々の親たちが集まってミーティングを重ねれば、一気に「週◯日のみ開催」を常態化させることもできるだろう。

 ただし、いずれも遅かれ早かれ問題になるのが、資金不足だ。
 こどもに栄養バランスの良い温かい食事とコミュニケーションのチャンスを提供することは、その活動内容が良いものであればあるほど、こどもたちが増えていく。
 増えることはうれしいことだが、その分だけ食材費や手間がかかることになる。
 増えすぎれば、より広い場所を借りる必要も出てくる。

 ボランティアの労力は、マネジメントでなんとかなるかもしれない。
 しかし、食材費や会場費などがどんどん増えていくと、こどもの親からより多くのお金を徴収することになったり、常に運営に関わる大人にもボランティアに使う時間が増えてしまうことにもなる。

 貧しい家庭の子になるだけ安く(できれば無料で)食事を提供するという大義が損なわれてしまっては、ボランティアとして関わる大人のモチベーションを維持することも難しくなる。
 しかも、忙しさだけが増してしまうと、運営自体の持続可能性が危ぶまれる。

 では、どうするか?
 こども食堂の運営組織には、寄付金を個人・法人から集めているところも少なくない。
 寄付は1つの資金調達方法だが、こども食堂が報道されなくなると、次第に寄付する人が減るというデメリットがある。
 また、活動組織をNPOなどに法人化して、自治体や企業などから助成金を調達しようにも、既に助成金をほしい団体は無数にあるし、年1回だけ数十万円をもらっても翌年以降はもらえる保証はなく、焼け石に水だろう。

 そこで、僕(今一生)は、『学術書チャリティ』という寄付の仕組みを運営している。
 非営利活動団体が学術書チャリティの公式サイトから申し込めば、不要な学術書などのアイテムを古書店へ寄付すれば、買い取り額面の90%が申し込んだ団体へ振り込まれる仕組みだ。
 寄付の事実を報告できるブログがあるなら、法人化してない団体も申し込めるし、学生団体も歓迎だ。

 この学術書チャリティのメリットは、いつでも必要な資金を非営利団体が自助努力によっていくらでも集められる点にある。
 僕自身、このチャリティと同じ仕組みによって、僕の関わる非営利団体に毎月平均で20万円ほどを調達していたことがある。
 やり方次第で、不要な学術書はカンタンに集められるからだ。


●市民自身が課題解決に立ち上がれば、民主主義が生まれる

 不要な学術書は、大卒者の家には山ほど眠っている。
 子どもの通う小・中・高校の教職員なら誰でも持っているから、子どもに「先生から不要な学術書をもらってきて」とお願いすることもできるし、ボランティアの大人たちが学校に働きかけてもいい。

 また、大学生でも3、4年生になると、既に不要になってしまった学術書を持て余している人も少なくないので、近隣の大学に学内で集めてもらえるよう働きかけたり、社会福祉を学んでいる学生や、児童福祉やソーシャルデザインなどを教えている教師、社会貢献活動を行う学生サークルに声をかけて集めてもらう手もある。
 大卒者の働く職場には、NHK、読売新聞や朝日新聞、テレビ局などのメディア企業もあるから、学生が足を運べば就活のチャンスにもなるし、こども食堂を取材されるチャンスにもなる。

 さらに、団体の公式ブログで呼びかけ、こども食堂に不要な学術書を持参してもらうこともできるし、その呼びかけはfacebookやtwitterなどのSNSでも拡散できる。

 それどころか、こども食堂の活動資金のために、お金そのものではなく、不要な学術書を集めていることを地元の新聞やテレビ局、FMラジオ局などにメールで伝えれば、番組や記事で紹介してもらえるチャンスを作れる、活動自体を広く知らしめることもできる。

 学術書チャリティでは、学術書だけでなく、文学書や専門雑誌なども受け付けており、詳細はこのページの左の欄にある商品カテゴリーを確認してみてほしい。

 そして、こども食堂を運営する非営利団体のみなさんに、このブログ記事のリンクを教えてあげてほしい。
(※学術書チャリティは、こども食堂だけでなく、他の社会的課題でも、解決事業を行う非営利団体なら申し込める。承認されると、不要な学術書を効率良く集められるマニュアルも提供される)

 さて、僕がなぜ「こども食堂」の増加に注目しているのか?

 それは、「こどもを栄養不足と孤独から救う」という大義の下に市民が集まり、コミュニティを形成し、責任主体として動き始める時、日本に初めて民主主義が始まる期待があるからだ。

 民主主義とは、市民自身が社会的課題の解決に自ら参加し、責任主体として自治を行うマインドがなければ始まらない。
 日本は明治以来、近代化が始まったのはずなのに、日本人の心の中はいまだに「誰か偉い人にこの社会の仕組みを作ってもらえればいい」という封建主義だ。

 そのため、こどもの貧困などの社会的課題が話題になると、何のためらいもなく真っ先に政治や官僚などに対して解決アクションを求める。

 しかし、前述したように、民主主義とは課題解決のアクションに参加と自治で応じるマインドがなければ、始まらない。
 この参加と自治を実践するチャンスもマインドも、日本の戦後教育は日本人から奪ってきた。
 その一因は、官僚の腐敗にある。

 もっとも、こどもの貧困という現実を直視する時、官僚の腐敗を嘆いたり、批判する以上に必要なことは、市民自身が目の前の社会的課題を解決することに動くことだ。

 だから、全国各地でこども食堂は日に日に増殖し、市民自身による解決に動き出している。
 解決活動に関わるコストを計算し、活動継続に必要な資金を調達するために、さまざまな努力を続けている。

 こうした現実の先には、会費や寄付だけでは運営コストが賄えない日が来る。
 それに備え、赤字を補填できる程度の収益を生み出す仕組みが必要になる。
 それがボランテイア団体が社会起業家へ成長するプロセスであり、同時に何にいくらかかるのかを実践から学び、費用対効果を見積もるスキルを向上させる。

 そうなれば、やがて官僚が考え、議会で決まる政策のムダにも今より敏感になり、納税者としての意識も目覚め、政治思想よりもっと地に足の着いた判断力をもって、確かな政治的関心も高まることになる。
 そこに到達してこそ、この国で初めて民主主義が理解され、自治マインドをもった市民が税金の有効な使い方を提案できるようになり、腐敗した官僚を一掃し、無能な政治家を選ばずに済む社会へ近づく。

 それは、端的に「今よりもっと生きやすい社会の仕組みを作ること」につながる。
 こども食堂の運営などに関われば、市民が「他の誰でもなく自分たち自身がこどもが飢えない、孤独にならない社会を作るのだ」という意識を目覚めさせる。
 それこそが自治マインドであり、民主主義への目覚めなのだ。

 本物の民主主義が始まれば、民間でできることは民間に任せられるようになり、国や自治体におんぶにだっこだった構えに多くの人が気づくようになり、市民が支払った税金を腐敗した政治家や官僚に使われ放題になっている現実も変えられる。

 実際、イギリスのブレア首相は、シンクタンクを通じて民間の社会起業家に投資することで、財政再建を成し遂げた。
 韓国でも2007年に「社会的企業育成法」を施行し、民間でできる課題解決は民間に任せることで、財政支出を抑制しようとしている。
 世界の大借金国で、増税と借金でしか国の財政を維持できずにいる日本は、いまだにそうした世界情勢に鈍感で、腐敗した官僚と政治家によって市民が自治マインドを眠らされたままだ。

 しかし、現実はマスメディアが十分に報じていないところで、確実に変化してきている。
 ビジネスによって社会的課題を解決し、もっと生きやすいよのなかの仕組みを民間で作る社会起業家は、とくに3.11以後、日本にも増殖しているし、その中には児童福祉に関わるものもある。

 『ソーシャルデザイン50の方法』(中公新書ラクレ)で紹介した埼玉県川口市の「からふる」では、障害児を抱えた親たちが、障害児に自由に描かせた絵をプリントした名刺を販売することで、活動コストを賄う収益源の1つにしているし、障害児には印税を配当している。

 こども食堂を運営する大人たちが、国語の教師や書籍の編集者を公募すれば、食堂に集まるこどもや親たちに貧困や孤独などの現実を作文に書いてもらったものに添削指導を提供でき、多くの人たちが共感できる文章に洗練させることができる。

 それらの文章は紙の本として販売できる商品や有料ダウンロードできるコンテンツにもなるし、作文を読み上げる講演会として市内外へ子どもや親を講演者として売り出すこともできる。
 その収益も活動コストを賄う収益減の一部にできるし、印税も配当できる。

 こどもだからといって一方的に施しを受ければいいという構えを取れば、こども自身は「申し訳無さ」を言い出せなくなる。

 そういうやさしさの押し売りや支援ポルノを避けるためにも、こどもたち自身が面白がれる収益の作り方を、むしろ大人たちが教えてあげられるよう、社会起業家たちの手がけるソーシャルデザインやソーシャルビジネスについて学んでほしいものだ。

 『よのなかを変える技術 14歳からのソーシャルデザイン』(河出書房新社)を読んだり、ソーシャルデザイン白熱教室@早稲田大学の動画も参考にしてみてほしい。

 こども食堂が同じ市内に増えていけば、全部の足を運ぶこどもの数も増えるため、こども向けの商品・サービスを事業展開している企業に市場調査代をもらって、こどもたちに新商品のサンプルを試してもらうこともできるだろう。

 中高生にもなれば、彼ら自身が会いたい有名人にこどもがメールを送り、市内の公共施設で講演会を開催し、その入場料を収益減の1つにすることもできる。

 あるいは、中高生たちがわくわくしているゲームや有名ミュージシャンが新作を出すことが発表されたら、ゲームメーカーやミュージシャンにこどもからメールしてもらい、新作の初期出荷点数の売上の1%をこども食堂の運営費に寄付してもらえるよう働きかけるのもいい。

 こどもたちが、こども食堂の活動の意味を十分に理解し、自分の言葉で自分の境遇を表現するとき、「有名人はこんな田舎の小さな集団を振り向いてくれないだろう」という大人の浅はかさを吹き飛ばす現実が生まれる。

 こどもは、こどもというだけで、彼ら固有の価値があり、それは大人が見失っているものなのだ。
 一方的な支援が支配に変わりやすいように、日々育ちゆくこどもたちに、少しでも運営にコミットできる挑戦のチャンスも提供してほしい。
 社会的包摂は対等な関係にしか生まれないし、こどもの頃から自分たちの問題を自分たちで解決する活動に参加し、自治を実現していくことこそ、こどもの世代に民主主義の実現を残していけるのだから。

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■田舎が財政破綻すると、困るのは日本人全員(前編)

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 2014年、増田寛也・元総務相ら民間有識者でつくる日本創成会議は、出産適齢期に相当する2039歳の女性の数が、2010年から40年にかけて5割以下に減る自治体を「消滅可能性都市」に選んだ。
 すると、青森、岩手、秋田、山形、島根の5県では8割以上の市町村に消滅可能性があると推計された。

 若い女性が減ってしまえば、子どもも増えないため、その土地の市民を増やせる根拠を失い、自治体としては運営できなくなる恐れがあるってわけだ。
 人口が減れば、税収も減る。
 そんな状態が続けば、いつかは財政破綻も危ぶまれる。
 人口流出と、それに伴う財政破綻は、かつてのように再建するのが難しい。

 事実、財政破綻した北海道の夕張市は、今なお再建できていない。
 夕張市では、人口(外国人含む)が20139月末時点で9968人となり、1万人を割った。
 2007年に前身の財政再建団体となった際は1万2千人を超えていたが、市外への人口流出と、死亡が出生を上回る自然減とで人口減少が止まらない(2013102日付の日経新聞より)。

 では、財政破綻すると、そこで暮らす人たちはどうなるのか?
 夕張市の市長が、実情を日経スタイルのインタビューに答えている。
 その記事によると、以下の通り。

★ゴミの収集は有料化:1リットルあたり2円を市民から徴収
★水道料金:東京都目黒区の約2倍に増額
★軽自動車の税金:以前の1.5倍
★市民税・道民税:日本一高い額面
★公共施設の利用料:全国で一番高い自治体の料金に設定
★市職員の数:260人→約100人に削減
★議員数:18人→9人
★議員報酬:40%カット

 これだけでも、かなりの経済的負担を市民が負うことになるので、消費は冷え込み、人口流出で市場規模が小さくなっている以上、初めて起業するリスクも高まる。

 もちろん、大型投資を引っ張ってこれるだけの何かがあるなら話は別だが、今さら原発や基地を誘致することも極めて困難だろうし、「じゃあ、ギャンブル場?」という浮足だった話も経済効果がギャンブル並みなので、建設期間中に人口がさらに減る恐れすらある。

 そこで、「第2の夕張になるのでは?」と懸念されているのが、千葉県富津市だ。
 千葉県富津市は2013~2019年度の中期収支見込みを公表した。
 2015年度(平成27年度)決算で実質収支が赤字となり、2018年度には「破綻状態」と判断される財政再生団体に転落する見通しだ(2014年9月21日付の毎日新聞より)。



 ただでさえ借金と増税でしか歳出を埋め合わせられない無能な政治家と官僚が担っている日本政府は、こうした赤字転落の自治体が増えては困ってしまう。
 そこで、2016年3月に地方創生加速化交付金の交付対象事業の決定について発表し、補正予算として総額1000億円を新規に自治体にばらまくことにした。
 全国の日本人が支払った税金で、財政困難な地方の立て直しを速やかに行おうってわけ。

 伊豆大島にゴジラ像を建設して、観光客を呼び込もうとした東京都大島町も、この地方創生加速化交付金として得た8000万円に町の予算をくっつけて総額1億7000万円もゴジラ像の建設に使うと発表し、住民およそ2000人から反対の声が上がっている。

 ゴジラ像の建設でどれだけの経済効果が見込めるのか?
 その根拠はどこまで確かなのか?
 住民は不安を募らせているが、町議会は「前例がないから」住民への説明会をしないという。
 (島にゴジラ像を建てることだって、前例がないはずなのだが)

 地元住民にすら納得できる説明をしない閉鎖的な役所の体質のままでは、これまでと同様にバラマキが費用対効果良く使われないだろうことが懸念される。

 国から田舎に投げ出される国の金の多くは、その田舎に住んでいない日本人が支払った税金なのだが、こうしたムダ遣いに鈍感なままだと、財政破綻する町が増えれば増えるほど増税要因になっていき、自分たちの財布からどんどん金が吸い上げられてしまうことにも気づかないだろう。


●スタディーツアーで最初に会わせられたのは金融機関

 では、「第2の夕張」と懸念されている千葉県富津市はどうなのか?
 富津市も、地方創生加速化交付金を申請していた。
 富津市観光・しごと・移住推進プロジェクト-East Coast of Tokyo Bay-」という名目で、7730万円を調達し、地元のNPO法人オール富津情報交流センター(アフィック)に事業推進主体として委託した。

 このNPOアフィックは、2016年12月16日(金)-17日(土)に1泊2日の「起業支援マッチング・スタディーツアー」を実施した。
 「地方での起業や移住・二地域居住に興味ある人」を対象に現地視察をしてもらい、富津市長や関係機関と富津市の魅力や課題などを自由に意見交換できるという。
 富津市外から起業家や起業志願者などを公募し、15名が参加した。

 僕はそのツアーに参加する友人から誘われ、急遽、参加することにした。
 ツアーの集合場所は内房線・青堀駅で、僕の住む五井駅からは乗換なしで1時間ほどだったし、参加費が0円だったからだ。

 ところが、このツアー、ツッコミどころ満載のトンデモ・ツアーだった。
 もちろん、この記事は僕の個人的意見にすぎない。
 ツアーに参加した他の方々がどう思ったのかは、あるいは大して何も思わなかったのかについては、ネット検索などで確認してほしい。

 そもそも僕がツアーの開催を知ったのは、当日の2日前。
 参加者を集める業務を委託された人は、僕の友人に数を揃えるために慌てて電話してきたので、友人とお茶していた僕が急遽、誘われた次第だ。

 これだけでも、富津市やNPOアフィックに広報スキルが乏しいことがバレバレだ。
 富津市が全国に広くアピールできるだけの地元の良さがあるなら、広報スキルを学んだ方がいい。
 広報スキルがあれば、あらかじめツアー参加者を多く集められるので、申込者の履歴・属性・経験・職業スキル・実績などで参加者を絞り込んで、市と一緒に何ができるかを考えられるようになるし、ツアーの積み重ねによって市内のどこを見せればより高い関心をもってくれるかまで見えてくるかもしれない。

 もっとも、民間では当たり前の節約や広報スキルという文化が無かったから、破綻が危ぶまれるような財政状況に陥ってしまったのだろう。
 それに、今年(2016年)10月の選挙で、70代の時代遅れの市長に代わって40代の市長に若返ったので、あえて過去は問わないでおこうと思った。

 しかし、このツアーが新しい市長の下で執行されたものであることは変わらない。
 ツアーの内容に対する責任者は、国からの金を使う富津市になる。
 しかも、市長や関係機関と自由に意見交換できるのが、このツアーのウリなのだから、そこに1泊2日という時間と視察の労力に見合うだけの対価を発見するしかない。

 12月16日(金)、午前10時5分に青堀駅に着くと、マイクロバスに参加者たちが乗り込み、アフィックのスタッフに引率されていった最初の場所は、イオンモール富津だった。

 イオンモールの一角には、NPOアフィックがシェアオフィス用に借りているスペースがあり、そこに県内・市内の金融機関のスーツ族のおじさんたちが座っていた。

 もっとも、シェアオフィスのスペースにはまだ1社も入っておらず、がらんとしたスペースにはツアー参加者たちの座るイスが金融機関のみなさんと向き合う形で並べられていただけだった。

 しかも、金融機関のおじさんたちが手短に事業の紹介を一通りする話の中で、少し驚いたことがあった。
 それは、「市内には布袋寅泰・今井美樹の夫婦の別荘がある」とか、「若花田が住んでいる」など、有名人のプライバシーを金融機関の人間がさらっと言ってしまったことだ。

 「口が固い」はずの金融機関の人間が、初めて市内にツアーで訪れた人たちに個人情報をカンタンに暴露してしまっては、有名人や富裕層は富津市には住みたくなくなるだろう。
 いや、中流資産層の「上」の部類の市民も思わず敬遠してしまう、リテラシーの無さかもね。
 それが自分たちの商売を渋くしてしまってることに、彼らは全然気づいてないようだった。

 「富津市内で起業するなら私どもから金を借りてくださいな」という挨拶と同時に、各社のパンフレットが配られたのだが、年率で言えば、とても借りたくない数字だったので、興味を示すツアー参加者はほとんどいなかった。

 というか、なぜいきなり会う富津市民が金融機関の人間なの?

 1年後の財政破綻が危ぶまれている富津市は、少額の資金を小規模の事業に貸せば破綻を免れる程度には破綻回避までの時間的余裕があるってこと?

 新規事業を市外の小規模事業者が1000人規模で一斉に始められる秘策のような支援体制でもあるの?

 そう勘ぐりたくもなるのだが、実はほとんど何も考えてないことが、次に訪れた市役所でハッキリしてしまった。
 そう、市長との意見交換である。
(以下、後編へ続く。全編を動画で聞きたい方はコチラ

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■田舎が財政破綻すると、困るのは日本人全員(後編)

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 「田舎が破綻すると、困るのは日本人全員(前編)」に続き、2016年12月16日に1泊2日のスタディーツアーとして訪れた千葉県富津市の現状を伝えよう。
 既に4万5000人にまで減った富津市は、毎年500人ほどの市民が逃げ出しているまちだ。
富津市のホームページより
 午前中、いきなり金融機関の人たちの挨拶を受け、なんともリアクションできない気持ちを引きづったままのツアー参加者たちは、マイクロバスで富津市名物といわれる「海堡丼」を出す店に到着した。
 富津市は漁業と観光のまちなので、海堡(※海上に人工的に造成した島に砲台を配置した洋上要塞)を模した海鮮丼を食す機会を提供するのは悪くない。

 でも、江戸前の食材なら、東京でも神奈川でも食べられる。
 味付けも、そう変わらない。
 富津まで来なくても食べられるものを、なぜ富津市の店内で食べなければならないの?
 これなら、海沿いのシーフードレストランの方が、海風を浴びられるだけ風情が違うだろう。
ツアー参加者を乗せたバス
 そして、午後1時。
 マイクロバスが市役所に着いた。
 市役所で市長・担当課長との意見交換会を、90分も楽しめることになった。

 これがこのツアーの一番のウリなので、市長が90分も同席すること自体は最大限に評価したい。
 ただ、結果的に言えば、市長が同席した以上の面白みはなかった。

 市長や担当課長の説明が一通り終わって、速やかに質問が募られた。
 ムダな話がなくサクサクと進行し、質問時間を多めにとろうとする構えは、気持ちよかった。
 すると、僕をツアーに誘った友人が、いきなりこんな質問をした。

「市外から富津市に来て起業する人は、立ち上げ資金などで金融機関にお世話になるなど、リスクを背負いますよね。
 遠方からやってきて、富津市のために自分だけがリスクをとるんじゃ、富津に来てよと言われても誰も動機づけられないと思うんです。
 そこで、起業するリスクを市で分担する仕組みを考えませんか?
 たとえば、起業支援を担当した役人が、起業した市民がリスクを背負えずに失敗しても、処罰されず、左遷もされず、減点評価されない制度を作ることは考えませんか?」

 自治体によっては、施策の失敗のツケを担当役人が背負わされ、部下のいない新しい部署として窓際に回される憂き目に遭う現状があり、そうした悪習慣がどこの自治体にもあるため、思いきった取り組みを役人が自重する文化が根強くあるのは推して知るべしだ。

 しかし、友人の質問に担当課長たちは苦笑い。
 40代の若い市長は、「ありきたりなようですが、前向きに検討したいです」と答えた。
 どこまで本気で議会に諮るかは、わからない。
 優等生的な答え方だが、就任2ヶ月めの市長としては、そう言う他に無いのだろう。

 他にも次々に面白い質問が投げかけられたが、正直、市長・担当課長がどこまで本気で意見を取り入れるのかは、今後実現する政策を見なければ、わからないので割愛する。
 他に誰も質問の手が上がらなくなったのを確認し、僕もこんな質問をした。

「富津市にしかない魅力を、20字以内で説明してくれませんか?」

 すると、市長は「美しい夕日と美味しい魚」とか、「いろいろあるし」などとアバウトなことしか言わず、弱ったような笑顔を見せた。
 そこで僕は、さらに突っ込んだ。

「日本は海に囲まれた国なので、海のある自治体ならどこでも同じことを言いますよ。
 僕がお尋ねしたいのは、富津にしかない魅力です」

 すると、市長は「うーん」と唸って、黙ってしまった。
 この市長は、生まれ育ちも富津市内で、木更津出身の浜田靖一・衆議院議員の政策秘書を務め、富津市の副市長も務めてきた人だけに、民業にも起業にもうといことは否めない。
 つまり、「うちの子はかわいい」と言うことはできても、「他の子にはない、こういう魅力のある子だ」といえるだけの視点を獲得していないのだ。

 僕は畳みかけるように、こう言った。

「富津市は2018年には財政破綻が危ぶまれていると報じられましたよね。
 残り1年しかありません。
 イスカンダルにコスモクーナーDを取りに行って無事に帰ってきた宇宙戦艦ヤマトみたいに、1年間で滅亡を免れるだけの画期的な仕組みはあるんですか?」

 すると、市長はキッパリ言った。

「富津市は、絶対に財政破綻しません。
 私どもの取り組みが十分に伝わってないだけです」

 この言葉を聞いて、僕は唖然とした。
 「原発事故は絶対に起きません」という安全神話をいまだに信じているかのような響きがしたからだ。

 もちろん、富津市は、この記事の前編で紹介した2014年発表の下方予測(財政収支の推移)をはね返し、2015年は黒字決算に転じたが、国の定める財政健全化の基準値が下回っていることを市も認めている。

 2016年度の上半期の予算執行状況でも黒字を計上し、財政健全化のきざしを見せてはいるが、メディアから付与されたマイナスのイメージを払拭できるだけの画期的な盛り返しの施策が打ち出されているなら、役所は広報スキルを磨いてもっと市内外に訴える必要があるのでは?

 人口流出や過疎化、産業衰退などの深刻な社会的課題を解決した自治体では、画期的かつオープンマインドな情報公開に長けているし、そういう事例は毎日のようにニュースになっている。
 それらの事例をきっちり学んでいれば、「取り組みが伝わってない」なんて言葉は出てこない。
 そんな言い訳自体が、政策の失敗(あるいは怠慢)を市長自身が認めたようなものだからだ。

 広報スキルが不足していることは、現実には未発見の魅力があろうとも、それが広く売り込めず、自治体としては致命的な欠陥になりうる。
 その危機感が当事者の市長に乏しいなら、「よそもの」の僕らツアー参加者はお手上げなのだ。
 一言多い僕は、つい言ってしまった。

「たとえば、Skypeやツイキャスを週1回やり、市役所1回のロビーの壁をスクリーンにし、世界中の人と富津市長・市民をつなげば、そのコミュニケーションの積み重ねによって富津市のファンを市内外に広く育てていけますよ。
 それは、0円でできることじゃないですか。
 正しいことをするだけじゃ、人はついてきません。
 正しいことをするからこそ、楽しくワクワク参加できる仕組みを作りましょうよ」

 すると、このアイデアを市長はさっそくメモしていた。
 なんか、いろいろ拍子抜けするリアクションだ。
 人口流出を食い止め、過疎化を免れたよその自治体が、どれだけオープンに情報公開をしているのか、市外の人間とどれだけオンライン上でコミュニケーションをしているのかを知らないらしい。


●市民が動かず、市長も本気にならないまちはオワコン

 夕方は、お土産物屋も入っている、海沿いの総合シーフードショップに立ち寄った。
 ここではオリジナルのバームクーヘンが作られていて、店員が1個ずつ配ってくれたので食べてみると、かなり美味しかった。
 ツアーにたった一人しかいなかった女性参加者も、これには素直に満足していたようだ。



 その後、地元に江戸時代より目から住んでいる旧家の方が建てた美術館や、アーチストの人たちが利用していたけど今は使われてないアトリエの外観などを観て歩き、最後は富津市に移住し、商業施設をコ・ワーキングスペースとして再利用している若い起業家を視察した。

 そこでは、1ヶ月間の滞在体験プログラムで10万円(税込み)の参加費を支払わせる「田舎フリーランス養成講座」を開催していたところだ。
 事前にそのサイトをチェックしていた僕は、「期間内で自分自身で10万円を稼ぐフリーランスに」とか、「3万円稼ぐためのアフィリエイト実践講座」というキャッチコピーに、なんとも怪しい印象をもっていた。

 実際、コ・ワーキング・オフィスを主催している若者は、妻子と一緒に移住し、安い生活費ゆえにスローな仕事ぶりを見せてはいた。
 でも、6学年すべて合わせても50人未満の小学校しか富津市内にはなく、これから子どもへ教育投資していくのに必要な資金を得られる根拠があるのかどうか…。
(少なくともアフィリエイトは不労所得であって、仕事ではない。
 仕事とは、価値を生み出す対価として金を受け取るものだ)

 そこから歩いて旅館に着くと、これ見よがしに生け簀にでかいカニがわんさかと入って、うごめいていた。
 温泉に入って、食事にありつき、宴会となった。
 しかし、いっこうにカニが出てこない。
 期待はずれとは、このことだ。
(ちなみに、朝食にもカニは出なかった。残念!)

 唯一の収穫は、ツアー参加者どうしで名刺交換したら、面白い職歴の人たちだとわかったことだ。
 米を作って米粉ミルクを作る予定の東京の大学生。
 福島県の会津で中高生相手にプログラミングを教える塾の若手経営者。
 来日10年以上でインバウンドを見込んだおもてなしアプリを作っている中国人。
 何十億円もの大金を動かしているコンサル…。

 20代から50代まで15人の参加者どうしのスキルを掛け合わせれば、小さなまちの一つぐらいなら動かせそうなパワフルな起業家たちの集まりだった。
 彼らは、バスから見えた光景をヒントに、「鋸山トレイルランや元旦マラソンに人が集まるならスポーツを起点に売り出してもいいじゃないか」などの具体的な提案も語っていた。

 しかし、僕らツアー参加者たちは、宴会でNPOアフィックのスタッフのみなさんと和気あいあいと酒を飲んで語らったものの、アフィックのみなさんには簡単な自己紹介しかしていないし、それしか求められなかった。
 僕が市長だったなら、「なぜ参加者各自にいくら払えば何が一緒にできるかを具体的に尋ねなかったのか?」と叱るかもしれない。

 翌17日(土)の朝、旅館のロビーにあった深海鮫の模型が面白かったので撮影した。
 富津湾は遠浅ではなく、いきなり深海600メートルの海溝になっているんだそうだ。

 そこで、実際に深海鮫がとれるそうで、僕は「蒲田くん」(映画『シン・ゴジラ』を観た人ならわかるよね)ならぬ、「富津くん」と呼んで、一人で笑っていた。

 でも、土地の人は誰も、突っ込まない。
 それもそのはず。
 あとで調べてみたら、富津市内には映画館が1軒もなかったのだ。

 若者たちがワクワクしながら活動できる文化拠点がないまちは、18歳でおさらばするしかないまちだ。
 地元に思い入れを育まれず、やりたい仕事もできないのだから、まるで浜田省吾の『MONEY』を地で行くしかない。

 富津市では、年間500人の市民が市外に逃げている。
 市内での交通の便は悪く、買い物も不便で、富津市自身の調査によると、およそ5人に1人の市民が逃げ出したいようだ。
 しかし、市のホームページでは、その深刻さを共有したくないのか、こう書いている。

住み心地に関する質問について54.7%の人が「(まあまあ)住み良い」、定住意向に関する質問について77.4%の人が「(ずっと又は当分は)住み続けたい」と回答しています。

 なんだ、この能天気なポジティブさ!
 それは、そのまんまツアーのゆるさにも現れていた。

 午前中に鋸山ロープウェイに登り、約4分間で富士山を遠く観て、降りてきた。

 乗る前に僕は観光客向けに売っていた「房総サイダーびわ風味」(120円)を飲んでみたのだが、近所でびわが取れるのに「風味だけびわ」のサイダーを飲むという自虐ギャグのような展開だ。

 売り子の若い娘さんも、接客に慣れていないのか、笑顔が足りない気がした。
 仕方ないので、猫を撮影しながら、バスで登る最中に観た野生の小猿を思い出していた。
 この山には害獣の「きょん」も住んでると聞いたけど、猟銃でハンティングしてジビエにするのも難しいそうだ。

 昼食は、これまた「名物」と紹介された焼き穴子重だった。
 これなら、富津の浅黒い肌の漁師たちが野性的に船で食っているだろう”漁師めし”を、まだ暗い朝に漁船に同行して食いたかった。
 富津市で「江戸前」と言われても、「東京から近い」なんて言われても、東京在住の経験者の心にはぜんぜん響かない。

 最後は、漁業を廃業した人たちの大漁旗が天井一面に貼ってある埋立記念館を視察したが、ツアーバスの運転手ですら「きっとショボいよ」と見る前の参加者たちの気を削ぐ発言。
 案の定、のりの作り方やら、昔の漁法やらの模型や歴史を見せられ、リアクションに困りつつ、バスに帰り、あとは青堀駅へ直行。

 それもつまらないので、「このへんには古墳群があるようなので回ってみませんか?」とお願いすると、大小の前方後円墳が続々と道の両脇にあり、ちょっとだけバス内の気分が上がった。
 解散地点の青掘駅に着くと、ツアー参加者どうしがフェイスブックの友だち承認をしながら別れたのだが、僕はツアーの各所で一人抜け駆けしながら、一般市民の人々の声を拾い集めていた。

 もっとも、中高年しかまちを歩いていないのだが、「このまちは人口流出で不安がられてますね」と声をかけると、ふつうに答えてくれた。

「もうだめでしょう。じいさん、ばあさんしかいないし、ねぇ」

「私だって、もっと若かったら出ていくよ。でも、もう年だから…」

「市長だって1~2年は役人や議員などの顔と名前を覚えるので精一杯。何もできないだろう」

「もう、どうもこうもならんでしょ。昔は合併で7万人を越えた頃もあったんだけどね」

 ツアー参加前は、よその成功事例に基づいた富津市の活性化プランを考えていた僕も、市民の率直な声を聞くにつけ、「このまちは本当にダメなんだろうな」と思った。
 住んでいる方には申し訳ないが、市長以下、役人・市民が日本全国に土下座するようなつもりで国からの金や民間からの投資を乞うしかないだろう。

 それは、よそもの・わかもの・ばかものという地域活性に必要不可欠な3つの存在の声をこれまで十分に聞き取らずにいたツケだ。
 とくに、地元の若者に見捨てられたツケは大きい。

 「自分たちの郷土だけが助かればいい」という閉鎖的なマインドのまま「よそもの」の作る金を当てにするなら、「第2の夕張」は遅かれ早かれ実現してしまうだろう。

 これは、富津市だけの話じゃない。

 民間人と一緒にリスクをとる覚悟はあるのか?
 田舎の赤字補填のために、国民全員の税負担や借金を増やすのか?
 道州制を導入して一気にダメな自治体を消滅させるか、それとも財政再建団体を増やすのか?
 遅かれ早かれ、国民自身の意志を問われることになるだろう。

 以上のツアーの感想は、あくまでも僕の個人的な意見にすぎない。
 このツアーが富津市にとっては最初の試み的なリサーチであろうと、「よそもの」にまちの最大の魅力をはっきりと伝えられず、共感より同情を与えてしまったことは、反省材料として根本的な改善に活かしてほしい点だ。

 地元に人や資金、活性化ノウハウやさまざまなスキルを呼び込みたいのは、どこのまちも同じ。
 富津市は、全国津々浦々に優秀なライバルがたくさんいる現実を見据えてほしい。
 日本そして世界のどこにもない唯一固有の魅力が発掘(あるいは創生)できない限り、その土地に時間とお金をかけて訪れる人や移住してくる人は増えないのだから。

 そして、「金が無いから国から引っ張ってくる」という安易な発想をやめて、価値あるコンテンツがあると本気で思えるなら堂々と売り出し、有料視察ツアーをやってみればいい。
 「金を出してでも富津市を訪れてみたい」という情報発信が日頃から行われているなら、そして本当に金を払いたくなるコンテンツがあるなら、そのツアーは市政の正当性を内外に示す強力なエビデンスの一つになるのだろうし。

 なお、「地方創生コンソーシアム」と「スタディーツアー」の2語で検索すれば、無料参加できるツアーもヒットするので、さびれた田舎で起業したい人は参加してみてほしい。
(※この記事の前編はコチラ。全編を動画で聞きたい方はコチラ

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■1・7 運動嫌いが全国から集まる皇居マラソン『1 for 1』

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 皇居前に集まった人の中から2人1組で、5キロの皇居一周をめざす「1 For 1マラソン」が、2017年に復活する。
 この「1 For 1マラソン」は、ライターで空手家の遠藤一(はじめ)くんが立ち上げ、大阪でも開催されたこともある”運動嫌いのためのマラソン大会”だ。

 遠藤くんは元ひきこもりで、全身自傷の経験者だったが、友人の自殺をきっかけに空手にのめり込み、今では黒帯だ。
 そういう経歴の遠藤くんが主催するマラソンだから、これまでも全国各地からひきこもり、ニート、精神科通院者などが続々と駆けつけ、参加した。

 このマラソンの敷居の低さも、参加者にとって一つの魅力になっている。
 「1 For 1マラソン」の特徴は、以下のとおり。

① 休んでも歩いても、どんなに時間がかかっても、ゴールすればOK!
② 2人1組でお互いに相手に無理をさせない速度を保ち、一緒にゴールする!
③ 2人1組のチームどうしで競うのではなく、1組のうち遅い方に合わせて走る!
④ この5キロだけは伴走し、一緒に同じ汗を流す確かな喜びを学ぶ!

 ふつうのマラソン大会で強いられる「一生懸命」や「競争」は、この「1 For 1マラソン」ではむしろ完全に否定され、あくまでもゆるく、一緒に走るパートナーを思いやる趣旨で開催されるのだ。
 だから、東京から遠い地方に住んでいる人も続々と参加し、日常生活ではなかなか感じ取ることのできない何かにふれ、リピーターも増えていたのだ。

 これまでに参加した人たちの感想が、このページ(←クリック)で読める。

 一人で家にいても何も変わらないと思ったら、これを機会に2人1組で走ろう。
 僕も取材とかち合わなかったら、参加する予定だ。

 ふだん、ひきこもりやニート、メンヘラと「伴走」してるつもりのお仕事の人も参加してみて。
 もちろん、運動好きの人も、親子連れも、障がい者の人も、参加できる。
 同じ時間、同じ汗を共に流し、喜怒哀楽を分かち合えるチャンスは、そうそう無いからさ。

 しかも、今回は以前よりさらにゆるく、「オフ会」として開催される。

 走り終わった後は、みんなで飲食を楽しむのだ。
 詳細は、写真の下にある公式サイトのページで確認してほしい。
以前に開催された1 For 1マラソンのようす

■2017年 お正月だよ、1for1マラソン! オフ会
 ◎日時 2017 1 7() 13時集合
 ◎場所 JR神田駅南口 改札前
 ◎参加 0円~1000円程度(※各自の経済状況や満足度にお任せ)
 ◎予約 下記リンクのページにあるメールアドレスまで

●「1 For 1」に共感したら、あなたも無理なくできる協力を!

 この「1 For 1マラソン」は、事実上、遠藤一くんが個人的に運営している。
 そこで、当日皇居まで足を運べない方や、行けるけど5キロを歩けない事情のある方で、このイベントの素晴らしさにピンときた方には、下記の協力をお願いしたい。
 どれも難しいことじゃない。

★Facebookをやってる方
 このページ(←クリック)をフォローし、シェアして友人に急いで知らせてほしい。
 その1回のシェアで、人知れず孤独をこじらせてしまいそうな人を救えるかもしれない。

★Twitterをやってる方
 このアカウント(←クリック)をフォローし、気になるつぶやきをRTしてほしい。
 その1回のRTで、心を許せる相手を初めて見つけられる人が生まれるかもしれない。

★スタッフになりたい方
 走っている様子を撮影したり、ツイキャス実況したり、雑務を担当したい方。
 今すぐ「1 For 1マラソン」のサイトの下の方にある「募集します!」を観てほしい。
 事前のスタッフも急募中だ。

★運営費を寄付したい方
 参加者には、貧困に苦しむ人も少なくない。
 それゆえ1円でも節約したいという気持ちをくんで、参加費の当事者負担をなるだけ下げる方針があり、開催のための経費を賄うのが難しい。

 広報チラシの印刷費、開催のための人件費、参加者の健康管理代など、約10万円が遠藤くんの個人的な持ち出しになるからだ。
 そこで、「よし、面白いじゃないか。少額だけと寄付しよう」と思われた方は、「1 For 1マラソン」のサイトの一番下にある口座まで1000円単位で振り込んでほしい。
(※企業向けには年間で一枠5000円の広告費として出稿できるので、法人の場合は、「1 For 1マラソン」にあるメールアドレスから申し込んでほしい)

★広報チラシをまきたい方
 以下のチラシをダウンロードし、添付ファイルとしてメールで友人に送ってほしい。
 プリントして配布することもできる。


★SNSで拡散できる方
 いまご覧のこのページも、できれば、SNSで拡散してほしい。
 ページの下にある「mixi」や「G+」などをクリックし、なるだけ多くの人に早めに知らせてほしい。

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■2017年 2月3・4日、浜松で講演 きみも開催する?

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 不肖・今一生、2017年2月に、浜松で2つのイベントに出演することが決まった。
 一つは、地方でソーシャルビジネスを立ち上げる際のスタートアップとして、スモールビジネスの実践例を語るもの。
 もう一つは、性体験について参加者と一緒に考えるもの。
 どちらも場所は同じだ。


■ソーシャルビジネスを学ぼう
 ~社会貢献で飯を食うための事例と発想
●内容:ダメな人ほど「仕事」が作れる ~スモールビジネスからソーシャルビジネスへ
   無職者・障がい者・10代が自分のやりたい仕事を作った実例に学ぼう!
●出演:今一生(ライター、編集者)
●日時:201723日(金) 夜630分~830
●場所:「表現未満、」実験室/浜松駅から徒歩10分程度
   浜松市中区鍛冶町312-18 金原ビルディング2階(※下の地図を参照)
●参加費:0円
●問い合わせ:認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ 山森達也
      yama@hc3k.com

■エロスのヴぁ
 「最終兵器童貞 ~こころの包茎手術
●内容:老いも若きも男も女も下ネタで盛り上がろう!
●出演:今一生(ライター、編集者)
   著書に『出会い系時代の恋愛社会学』、編著に『日本一醜い親への手紙』ほか。
●日時:201724日(土) 夜7時~9
●場所:「表現未満、」実験室/浜松駅から徒歩10分程度
   浜松市中区鍛冶町312-18 金原ビルディング2階(※下の地図を参照)
●参加費:1000円(当日会場で精算)
●問い合わせ:認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ 山森達也
      yama@hc3k.com


 どちらも、会場のキャパが15名ほどらしいので、お問い合わせからメールで予約するか、当日早めに会場に出向いてほしい。


●きみも講演会の主催者になってみないか?

 さて、地方で講演に呼ばれる際は、その講演の主催者が交通費を負担してくれるので、それ以外の講演を新たに企画してくれる現地の方を毎度募集している。
 そこで、以下の日程・場所で僕の講演会を開催してくれる方はいないだろうか?

★2月4日(土)午後1~6時/浜松駅周辺
★2月5日(日)午後1~6時/東京23区内

 公民館などの公共施設なら、入場料のあるイベントでも安く借りられるし、40名以上の動員が可能なら主催者と入場料を折半する企画もできる。
 たとえば、施設(会場)のレンタル料が0円で、入場料2000円で40名以上を動員できた場合、粗利が8万円になるので、主催者と僕はそれぞれ4万円ずつ得られるわけだ。

 話題は、生きづらい社会を変えるソーシャルデザインや起業の事例、副業としてのスモールビジネスなど多岐にわたるので、主催者になる方とSkype(con-isshow)で相談しながら決めたい。
 いざイベントが決まれば、このブログで紹介するし、3万人以上のフォロワーがいるtwitterでも拡散しよう。

 イベントを開催するのが初めての方でも、一度やってみれば、ノウハウを覚えられるし、そのことでもっと知名度の高い有名人を招いての講演会ビジネスを手がけることもできるようになる。
 それは、10代でも、専業主婦でも、障がい者でも、誰にとっても難しいことじゃない。

 僕(今一生)は、全国どこでも、呼ばれれば飛んでいく。
 あなたの地元で開催したいと思ったら、ぜひ気軽に声をかけてほしい。

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■宝島社「世界平和」の新聞広告は、弱者にとって有害

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 宝島社は、201715日(木)、企業広告「忘却は、罪である。」を、朝日新聞・読売新聞・毎日新聞・産経新聞・日本経済新聞・日刊ゲンダイの新聞6紙(全国版)に同時掲載させた。

 ご覧の通り、真珠湾を攻撃する日本の戦闘機と、広島へのアメリカによる原爆投下の写真を並べ、世界平和を訴えるものだ。
 第2次世界大戦(1939-1945)で、アメリカ人は約29万人、日本人は約310万人が死んだ。

 まず、この広告に宝島社がいくら出稿したのか?
 新聞の見開き全面広告に載せる媒体料金だけを列記すると、以下のようになる。

朝日新聞 3985万5,000円☓2P=7971万円
読売新聞 4791万円☓2P=9582万円
毎日新聞 25,92万円☓2P=5184万円
産経新聞 1395万円☓2P=2790万円
日経新聞 2040万円☓2P=4080万円
日刊ゲンダイ 278万円☓2P=556万円

 上記を合算すると、3億163万円になる。
 他にも、消費税+広告制作費(デザイン・コピー)などがかかるが、宝島社がざっと3億円以上の莫大な金をたった1日の「企業広告」に投げたのは間違いない。

 宝島社にとって、このように企業からのメッセージを伝える広告は20年目という。
 これまでも、がんを告白した女優の樹木希林さんが横たわる写真に「死ぬときぐらい好きにさせてよ」(下の図版)というコピーを載せて時代の閉塞感を訴えるなど、印象的な広告に莫大な金を出してきたことを覚えている人も少なくないだろう。


 しかし、日米の戦争の写真を使って「世界平和」を訴えた広告には、大いに違和感がある。
 その違和感の理由の一つは、これら一連の広告を制作したのが電通のスタッフである点だ。

 「忘却は、罪である。」
 このコピーを一番胸に刻み込まなければならないのは、電通のスタッフだ。
 過労死自殺をした複数の電通社員が2016年から大きな話題になっていながら、なぜ国と国の戦争に目を向けさせるのか?

 日本は戦後70年間、どこの国とも戦争をしなかった。
 しかし、この国の仕組みは、生きづらさをずっと温存し、毎年2~3万人が自殺した。
 この平和な70年間で、ざっと160万人以上の国民が自殺で亡くなっているのだ。
 これは、第2次世界大戦で亡くなった数の半分に相当する。

 日本における戦争は、他国を相手にするものではなく、内戦のように「格差の仕組みを作り出す側」と「彼らによって割を食う側」の間で行われてきたのだ。


 電通社員だった高橋まつりさんも、この自殺者数の一人だ。
 戦争のリアルより、過労によって自殺へ導かれるリアルの方が、はるかに日常的で恐ろしい。
 身内が亡くなっても、国と国の戦争に目を向けさせ、身内の不祥事を忘却させるのが、2017年になっても変わらない電通の企業体質なのか?


●電通との取引を辞めることこそ、世界平和への道

 電通グループには、社会的課題を解決するソーシャルデザインで仕事をしていると自称する並河進さん(右の写真)もいるが、自社の深刻な社会的課題である過労を解決できる仕組みを仕事として作り出せていない。

 大企業からはぬるい企画を立案しては大金をもらって動くが、自社の課題解決は給与をもらっても動けないのだ。

 電通のソーシャルデザインなんて、その程度にすぎない。
 大企業から大きなお金をもらわないと動かないし、もちろんソーシャルデザインは社会の仕組みを変えるだけの価値ある仕事だが、彼らにとっては単なるお題目になっている。

 まぁ、既得権益層にいる人(=格差の仕組みを作り出す側)が社会を変えるだけの動機を獲得するのは難しいかもしれない。

 だが、ソーシャルデザインにとって何より重要な点は、社会的課題によって苦しんでいる当事者の痛みにどれだけ共感しているか、だ。

 自社の社員を次々に過労で殺しても、それをいつまでも無視・放置・関心外にし、「TVや新聞の視聴者が減って広告が売れない時代には社会貢献で飯を食おう」という浅ましさでキレイゴトを続けるのが、電通の変えようともしない体質なのだ。

 並河さんが本当に優秀で、本気で電通の体質を改める覚悟があるなら、引責辞任する石井直社長(右の写真)と一緒に新会社を作り、電通を顧客にしてソーシャルデザインで過労を防ぎながら利益を出せる仕組みを売り出すかもしれない。

 それができなきゃ、これまで名ばかりのソーシャルデザインに大金を支払ってきた大企業も浮かばれない話だ。
(あまりにかわいそうなので、あえて企業名は出さない)

 今回、電通スタッフを使った宝島社の社長・蓮見清一さんにも、ファッション雑誌での儲けから支出した大金を、電通の企業体質を変えることにも使えることを学んでほしい。

「もう20年も電通と仕事をしてきたが、社員が過労で自殺する体質の企業とは取引したくない」
 そう宣言し、広告出稿の際は、他の広告代理店に乗り換えればいいだけだ。

 そうすれば、過労自殺が他人事ではないと感じてる女性(=ファッション雑誌の消費者)の心をつかめて読者増につながるし、それこそが「商品では伝えきれない“企業として社会に伝えたいメッセージ”」として多くの消費者に望まれるものではないか?

 たった1社でも、他社に先駆けて電通との離縁を宣言すれば、それこそが時代を変えられる希望を多くの消費者に印象づける。

 今回の広告には、こんなコピーもあった。
人間は過ちを犯す。しかし学ぶことができる」

 これは社員を次々に自殺させた電通を擁護する文脈にも読み取られる余地があるが、そんなことに3億円もの巨額な金を使ってしまうのは、愚かな過ちそのものだろう。

 3億円もあれば、今この時も戦場で平和維持活動をしている非営利活動を活性化させ、戦争をしなくても良い仕組みを世界に広めることができる。
 過労をなくす仕組みを導入する企業を日本全国に短期間に増やすことだってできる。
 それだけの大金があれば、より早く、より多く「死なずに済む命」を救い出せるのだ。

 20年間もそれを怠ってきたことは、60億円以上もの大金で電通や新聞社の社員の高い給与を温存し、「格差を作り出す側」として振る舞ってきたことになる。
 それゆえに今回の広告は、「世界平和」どころか、むしろ命にとって有害な仕事なのだ。

 しかし、本物のソーシャルデザインは、そうした愚かな金の流れから学び、戦争をさせない仕組みすらこの社会に生み出している。

 拙著『よのなかを変える技術』(河出書房新社)でも少しだけ紹介したアメリカの企業「ピースワークス」は、国境線で互いに対立する国の一つの農場と、もう一つの国の工場を連携させ、製品をアメリカで売ることによって利益を作り、その利益を農場と工場に分配することで、それぞれの市民が相手の農場・工場を攻撃できない仕組みを作り出した。

 相手を攻撃すれば、製品が作れず、自分たちが困ってしまう。
 相手国の市民と仲良くすれば、両国の市民の仕事と平和が保たれる。
 そうした相互依存の関係を作り出すことは、関係に敏感な女性の方が上手だし、関心を持ちやすいはずだ。

 そうしたソーシャルデザインの仕組みや事例を、ファッション雑誌の誌面に少し組み込むだけでも、宝島社は「ただの面白い広告に湯水のように金を使う企業」というイメージを払拭できる。
 女性社員の過労死というネタ自体、ファッション雑誌編集者も読者も他人事ではないはずだ。
 全国には、ライフ・ワーク・バランスの導入によって社員に過労をさせずに生産性を上げてきた企業が増えている。

 コンテンツ制作で雑誌の売上を飛躍的に伸ばしてきた宝島社の女性社員たちの優秀さを思えば、広告代理店に自社広告の制作を依頼する必要もないかもしれない。
 電通に支払う不当に大きい制作費を思えば、自社の社員にコピーやデザインを作らせ、浮いた金をボーナスで還元する仕組みを作る方が、自社広告を担える社員たちの働く意欲も増すだろう。

 自分より弱い立場の人間の大変さに関心を持ち、その苦しみに共感できた時、初めてソーシャルデザインが今日、世界同時革命のように増えている現実に驚くのかもしれない。

 ソーシャルデザインについては、既に多くの本が出ている。
 最後に、宝島社自身が巨額の金で作った過去の広告を引用しておこう。


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